北の関ヶ原 〜浅井畷の戦い〜

四谷軒

01 前田利長の出兵

 慶長五年(一六〇〇年)。

 この年に起こった関ヶ原という戦いは、関ヶ原のみではなく、この国のあちこちに争いを生じた。

 北陸においては、前田家は、徳川家康率いる東軍へと加担した。

 これには、先年の加賀征伐という、未発の軍事遠征によることが大きい。

 それは、豊臣秀吉死後の、前田家謀叛の風聞が元になっており、折りしも前田家は利家という大黒柱を失ったばかりで、利家の子・利長としては、寝耳に水だった。

 だが、五大老筆頭の徳川家康は、そんな事情におかまいなく、加賀討伐を決めたという。


「ふざけるな」


 利長は激怒した。

 いくら何でも、利家が亡くなった直後に、このようないくさをするとは。

 とはいうものの、ここで前田が戦ったとて、誰が味方するであろう。

 利家生前ならともかく、前田では徳川に勝てない。

 それが衆目の一致するところだった。

 現に、豊臣も前田に味方できないと伝えてきた。


「これは、無理だな」


 利長は、では降伏するか、とは言えない。

 濡れ衣でそこまでしたら、それこそ利家が化けて出てくる。

 どうにかして戦いを避ける方法はないものか。

 思い悩む利長に、母のまつが声をかけた。


 ――それならば、母が江戸に参りましょう。


 利家亡き今、当主こそ利長だが、利家と共に前田家を作ったまつは健在である。

 豊臣にとってのねね高台院が、前田におけるまつ芳春院だ。

 そのまつが、みずから江戸へ行き、滞在する。


「つまり、人質」


 母はそう言わなかったが、利長はそう言った。

 そして誓った。


「必ずや取り戻してみせる」


 これがただの武士なら、美談として語り継がれるところだろうが、利長は大名である。


「かえってご母堂のお気持ちを無下にするのでは」


 前田家に寄寓する、南坊という茶人が利長を諫めた。


「貴様に何がわかる」


 利長は激昂した。

 南坊は昔、妹と息子を人質に出したことがある。

 だから、わかってもらえると思って吐露したのに、何だその言葉は。


「いや私は」


 その時、妹と息子には殺されることを覚悟せよと伝えた。

 二人はそれを了承した。


「それに比ぶれば、芳春院まつさまは生きてる。ありがたいことでは」


「もうよい」


 利長は立ち上がった。

 西軍についた越前や、加賀南部諸侯の討伐に、南坊を連れて行こうとしたが、「ついてくるな」と告げた。


「それは、ご母堂を取り戻すためのいくさですか」


「そうだ」


 それだけ言って、昂然と利長は去った。

 あとに残された南坊は、落ち着いた所作で、茶室の片づけを始めた。


「取り戻すため、か」


 茶室は清められていく。

 それは病的で、かつて、織田有楽斎に「どこかきよしの病がある」と評されたほどだ。


「ご母堂のために動くというのはいい。しかし、いくさはだめだ」


 いくさ人としての南坊は、その危うさに気づいていた。

 いくさとは、情でするものもあるが、大将たるものは、理によって動かねば。


「でないと負ける」


 かつて秀吉は、あるじかたきとして、明智光秀という名将に戦いを挑んだ。

 それは復仇という求心力があったが、秀吉自身はあくまでも冷静に計算して、光秀に勝った。

 秀吉と共に戦った南坊だからこそ、わかる。

 わかるからこそ、利長にそれをきたいが、あの様子では、わかるまい。


「ならせめて、負けるにしても、なるべくきずを少なくしよう」


 南坊は懐中の十字架を出した。


「それが、伴天連ばてれん追放令で追われた私を匿ってくれた、前田家への礼だ」


 南坊――高山右近は、一度は捨てた剣を手に取ることにした。

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北の関ヶ原 〜浅井畷の戦い〜 四谷軒 @gyro

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