【3】 トリのヴィーナス


 ある日の仕事が終わったあと。


 トリ小屋から部屋に戻ると、ミズキはじぃーっとこの前買ったトリ専門誌を読みふけっていた。


 ちらっと横目でページの中身を見ると、開いているのはアンプテのページ。


 彼女が開いているページのモデルは私が見たものより、もっと凄惨なもので……腕も足ももがれた胴体だけのトリが、豪華な台座の上に乗せられていた。


「ただいま」

「あ、アサミ。お疲れ様」


 ミズキは雑誌をぱたんと閉じると私のほうをちゃんと向いて座りなおした。


「今日はまだ薬飲んでないの?」

 と、私が聞くと

「うん、ちょっと今日はハイな気分でもあるんだよね」

 ミズキはニコニコしながら返事をする。


「やめてよ。以前それで大変な目にあったじゃん」

 私は思わず苦笑いをした。


 机の上にある、赤いボトルの薬。

 飲むと、妙にテンションが上がって、自分が全知全能の力を手に入れて、なんでもできそうな気持ちになってくるもの。


 以前、2人で飲んだ時は……

 2人で冷蔵庫の中にあった食べ物を家中に投げまくってしまった。

 それに、気づいたら私は主食用のカプセルを尿道に押し込んでいたし、ミズキはチョコレートバーに熱烈な愛撫をして、顔中をぎとぎとのチョコ塗れにしていた。


「あの時の片づけは地獄だったね」

 ミズキは懐かしそうに感傷に浸っている。


「今日はさ」ふっと、寂しそうな顔をしたミズキが続ける。

「飲んだら、エッチしようよ」


「ウソでしょ」

 あの時飲んだ、赤いボトルの薬の効果は恐ろしく絶大で、私は卵を握りつぶした感触で絶頂しかけたことだけは鮮明に覚えてる。エッチなんかしたら、正気を保っていられるのだろうか。


「さすがにパス、今日結構お客さんいたし」

「ちぇー連れないなあ」

 ミズキは口を尖らせている。


「じゃあ、その代わり」

 ミズキは大きく息を吸ってから言った。

「今度、デートしない?」


「なんでそうなるのよ」

 デートなんて大げさに言う必要なくない?心の中で思わず毒づいてしまう。

「でもまあ、普通に遊びに行くのならいいよ」


「よし決まり!」

 ミズキは嬉しそうに手を叩くと、黄緑色のボトルを手に取った。


「じゃあ、明日から少し頑張って休み作らないとね」

 彼女はそういって2錠をごくんと飲み込むと、ぱたりと横になった。


***


 大分風が冷たくなってきた、秋口のシブヤ。

 いつものトリ小屋を二人で飛び出して街に出ると、いつもと変わらない喧噪があった。


 空に突き出ている何本ものガラス張りのオフィスタワーと工事用タワークレーン。

 地上では数えきれないほどの乗用車やバス。エンジン音と激しいクラクションが鳴り響いている。


 ミズキは、ここのところ妙に様子がおかしい。

 今だって、ヘンテコな模様が描かれたパーカーのフードのひもを意味もなくこねくり回していたり、若作りして履いたミニスカートの内側を妙に気にしていたり、要はずっとソワソワしている。


「ちょっと、ミズキ。前見てちゃんと歩いてよ。人にぶつかりそうなんだけど」

「ごめんごめん、思ったより涼しくて」


 でも、少しだけ気持ちが浮ついているのは私もきっと同じで、普段は奥にしまったままのレザー風のジャケットや、丈が膝までくらいのお洒落なカーゴスカートを引っ張りだしてきている。


「ねえ、アサミ」

 ミズキが私の身体の横にぴたりと張り付いた。

「手、繋ごうよ」

「ええ?なんでよ」

「いいじゃん。手が冷たいんだよ」


 ほんと、子供みたいだよね。もうすぐ30歳ってほんとかよ。


「今日だけね」

 私はぼそっと言うと左手を差し出す。


 ミズキがその手をぎゅっと握ると、彼女のちょっと低めの体温が、ひんやりとこちらの肌にまで伝わってくる。


「私たち、一緒に住んで今日で1年なんだよ。知ってた?」

 ミズキがぽつりと言うと、私は冷たく言うしかない。


「知らないよ。てか何か今日、気持ち悪い」

 ふふっ、ミズキは軽く笑って体を寄せてくると

「行きたいところ、いっぱいあるんだよね」

 と言って、私の手を強く引っ張りながら駆け出し始めた。


***


 最初に行ったのは、ただのカラオケボックス。

 ソファで囲まれた、ちょうどトリ小屋くらいの小さい部屋に煌々と光るモニターテレビ。

 

「こんなの中学生の時以来かも!」

 と私は言って、体をソファの上に投げ出すと、後はもう狂ったようにパンクロックを歌い続けた。


 ミズキが歌うのは、10年以上前のアイドルソングばっかり。

「この歌、小さい頃に聞いたよ。ミズキはやっぱり、もういい歳なんだね」

 と何度もからかうと、


「違うよ!私の心はまだまだ10代だからね!」とマイクを通してつんざくように反論してくる。

 

 そして、私たちは甘いシロップの炭酸ジュースをぐびぐびと飲み干す。

 机の上にはあっという間に空のコップが溜まっていく。

 


 カラオケの後はボウリング。

 ミズキは何度も何度もガーターを出して、私は人生で初めてのターキーを取って。

 

 近くのゲーセンではミズキがむきになって、なんのキャラか分からない上に、全く可愛くないぬいぐるみに何千円も突っ込んでゲットして喜んだりして。


 ほんと、中学生の時にやったような安っぽいデートをなぞっていっただけなんだけど、久々に心から楽しい、って思えるようなそんな時間だった。



 ゲーセンを出た後。

 だだっ広い交差点の信号待ち。ここの待ち時間は長い。

 私とミズキはまるで、カップルのように手をつないだまま。


 目の前の大型モニターには、何本ものコマーシャルが順番に写し出されている。

 

 今流れているのは、超がつく高級ブランドの香水。

 トリの私たちには縁なんて全くなくって、超ハイスペック夫婦の女性だけが辛うじて手に入れられるようなもの。

 ただのシロップのようなフレーバーボトルとは似ても似つかない、複雑な香りがするもの。


 そして、出てきた映像に思わず私の目は釘付けになった。


 モニターに映し出されたのは、美しく、品があり、凛とした姿で立つ1人の女性の姿だった。上半身には何もまとわず、整った形の乳房がありのまま映し出されている。

 下半身には、薄いヴェールのようなものをまとっているけれども、妙に色っぽい太もものラインがふんわりと浮かび上がっていた。


 そして彼女には……肩から先の両腕がなかった。

 まるで、図工の教科書で見た「ミロのヴィーナス」のような、圧倒的な存在感を放っていた。


 こんなの、街のど真ん中で目にするなんて。そうだよ、あれはCGだよね。

 きっと合成でわざとミロのヴィーナスのように見せているんだ。

 

 何度もそう言い聞かせたって、心臓の高鳴りが止められない。

 あんなのあり得ないって、分かっているはずなのに。


「あの子さ」

 ミズキがぽつりと言った。

「私の同期のトリなんだよね」


「え……」

 私のCGであってほしいという願望は、その一言で完全に砕け散った。


「すごいきれいだよね」

 うっとりとした表情で見ているミズキに、私は答える言葉を失う。


 分からない。この複雑な感情。

 だって、肩から先を切り落としてしまったら、今までできていたはずのことが全部できなくなってしまう。

 ご飯を食べることだって。シャワーを浴びることだって。自分で薬を飲むことも、仕事をすることもできなくなってしまうのに。


 ……こうやって誰かと手をつなぐことすらできなくなってしまうのに。

 

 思わず、ミズキの手をぎゅうと強く握りしめた。


 今、この瞬間、ミズキの手が、腕が、ひどく儚いもののように感じられてきて、絶対手放したくない。そんな気持ちになった。


「このあとさ、とっておきがあるんだよね」

ミズキは気持ちを切り替えるように明るく言った。


「ちょっと、それで普通のラブホだったら私帰るよ」

 念のため釘を刺しておく。

「大丈夫、任せておいて」


 ミズキは自信ありげにそういうと、私の手をしっかり握り返してきた。


***


 高級そうなテナントばかりが入っているシブヤのビルのうちの一つ。

 エレベーターに乗り込むと、ミズキは迷わず一番数字の大きいフロアのボタンを押した。


 滑るような駆動音。

 最上階にたどり着き、扉が開くと——


 まるで現実のものではないような景色が広がった。


 シブヤで一番高いビルの展望デッキ。

 そのデッキから辺りを見渡すと、もうすっかり冷たくなった夜の空気の中に、無数の金色の光の粒が撒き散らされていた。

 そして、地の果てまで続きそうなほどの赤と白の光の明滅がきらめいている。


 私は、初めて空から見るシブヤとトウキョウの光の深さに、呼吸することさえ忘れそうになるほどの感動を覚えた。

「ミズキ!これすごいね!どうしたの?」


 展望デッキのチケットなんて、私たち『トリ』は簡単に手に入るものではなかった。

「ちょっと、アテがあってね」

 とミズキはにこりとほほ笑んだ。


 私たちは何度もはしゃぐように展望デッキを走り回り、車や飛行機の光の粒を指さしては歓声を上げた。

 まるで、現実のものとは思えないような景色で、まさに夢のようだ。と言うしかない。


 一通り走って、叫んで、騒ぎ終わると、私たちは小さな屋外用の暖房がついたソファのところに2人で座り込んだ。私たちの手はしっかりと握られたまま。


 しばらくの間は、今日の余韻を味わうかのように、静かに黙りこくっていた。


 やがてミズキが、ぽつりと言葉を落としてきた。


「サムライはさ、生き方よりも死に方を考えるらしいよ」

「なんで、今それなのさ」


「ウチ、もうダメだと思う」

 寂しそうな口調でミズキがぽつりと言った。


「なんか、ちょっと前から性欲が止まらなくてさ、ずっとしたくて止められないの」

「だからウチ。5000円って約束したのに、3000円とか2000円でしてた。ごめん」


 そういえば、確かに値段に文句を言われることは増えてきている気がしていた。

 でも、だからって。一言言ってもらえれば一緒に考えたのに。


「仕事が終わっても止められなくて、それが辛くって。今もしたい。アサミに死ぬほど犯してほしい」


 ミズキはぽつりぽつりと続けている。

「調べたらさ、私の世代の人工性器の不具合なんだって。笑っちゃうよね」


「あと……身体が、全身が少しだけかゆい。ホルモンで肝臓がやられてくるとそうなんだってね」


「それにさ……」


 ミズキの声が震え始める。

「ウチ、気づいたらもうアサミのことしか考えられなくなって、アサミともっと一緒にいたい。アサミとずっと暮らしたいって考えてるの」


 ぽたり、ぽたりとミズキの瞳からは涙が垂れ始めている。

 そして、一息に吐き出すように言った。

「誰かに依存し始めたら、『トリ』としての人生は終わりって、分かっているはずなのに」


 ミズキは静かに嗚咽を漏らしている。

 思いがけない告白に、私は答える言葉を完全に失って……。

 ただ、顔を伏せていることしかできない。


 でも、ミズキの手のひらだけはさっきよりも熱を帯びていて、彼女の生がそこにあることは確かに感じられた。


「ウチ、死ぬのが怖い」

 ミズキは言った。

「でも、アサミの前で死ぬのはもっと怖い」


 トリの平均寿命は35歳。

 彼女はもう、残り5年。


「だからさ、バカなりにウチも考えたの」

 ミズキはすっと私の手を握っている方のパーカーの袖をまくると、手首には、点線のような、切り取り線のようなタトゥーが入っていた。


「これで、事前にイメージするんだって。アンプテ」

「うそ……」

 私が握っているミズキの手のひらは……当然切り取り線の先にあった。


「多分もう、ウチの身体は今がピークで、あとはダメになっていくばかりなんだと思ってさ」

「このムラムラが止まらないのも、もしかしたら今が一番仕事をしろってことかもしれないしさ」


「だから、ウチ。シンジュクにいくね。そこで、今できる最高の私になりたい」

「うそ……やだ……」

 思わず、声が震える。


 そして、彼女は決意を込めたように強くはっきりと言った。


「アサミ。今までありがとう。私は全部切るつもり」


 私は涙を浮かべたまま、首を横に振ることしかできなかった。

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