【4】 トリのプレトルソ


 朝。

 黄緑の薬を飲んだ後によくある、ぐるぐる回るような頭の重さで目が覚める。


 ミズキは、まだカーペットに横になっていた。

 最近彼女は、黄緑の薬を4錠も5錠も飲むようになっていて、そのあとぶっ倒れるようにして寝入っている。


 あのデートの日から、結局、私はまだミズキとの共同生活を続けている。


 早々と家を出ようとするミズキを無理やり説得して、

「私ができるところまでお世話をさせてほしいの!」と押し切ったからだ。


「ミズキ、起きてよ。朝だよ」

 何度も身体を揺さぶる。

「ミズキ、起きて。午前中の『トリ小屋』ミズキの番なんだから」


「うん……分かったよ……もう」

 ミズキは気だるそうに体を起こすと両腕を挙げて大きく伸びをした。


 その腕の――両方の手首から先は、包帯ですっかり覆われている。

 私と一緒につないだ手のひらは……もうどこかにいってしまった。

 

「朝のゼリーだよ、フタ、開けてあげたから自分で支えられる?」

「うん、ありがとうアサミ」


 そういうとミズキは、包帯で覆われた手首と手首でボトルを挟むようにして持った。そして、ストローをぱくりと咥えこむと、ちゅうちゅうと中のゼリーを吸いだしていく。


 アンプテは段階的に進めるものらしい。

——血流の流れが大きく変わってしまうから、一気に切り落としちゃだめなんだって。

 ミズキは、照れくさそうに私に説明をしてくれた。


 身体に負担の少ないゼリー食も、そのための1つ。


「ごちそうさま。シャワー浴びてもいい?」

 うん、と私は答えるとミズキが着ているTシャツを一緒に持ち上げる。

 はいていた分厚いスウェットと下着にも手をかけていくと、ミズキの全身が露わになった。


 私よりも少し大きい胸のふくらみ、くびれが消えつつある腰と、せりだした腰回り。

 少し色がくすんできた人工性器と、包帯のまかれた手首。


 そして——肩、太ももの付け根に刻まれた点線のタトゥー。


 私は複雑な気持ちで、片目で見ながらシャワールームへと誘導していく。

 もちろん、ミズキは一人でなんて洗えない。


 包帯の巻いてあるミズキの手首を濡らさないように気を付けながら、ぬるま湯のままじゃばじゃばと洗っていく。


 棚の上から乾いたバスタオルを1つ取ってミズキの全身を優しくふき取ると、いつものように声をかけた。


「フレーバーはどうする?」

「ピーチミントがいいかな」


 私はちょんちょんと手に取ると、彼女のぷくりと膨れ上がった乳首に、人工性器に、少しずつ馴染ませていく。


 ミズキが、歯を食いしばっているのが分かる。

 声を漏らしそうになっているのを耐えているのだろう。

「今日も準備ばっちりだよ」

 私が笑顔で言うと、ミズキは


「いつもありがとう、アサミ」

 と、最上級の笑顔でお礼をしてくれる。


 そして最後に私は、少しためらいながらも——ふわりとした軽いキスを彼女の唇におとす。



 シブヤでは珍しいアンプテがここにいるってことは、すぐに評判になった。

 そのせいか、ミズキの客が途切れることはほとんどなくなった。


 ミズキの金額はあっという間に10000円になって、15000円になって。

 私は、いつもじんわりと胸を焼かれるような気持ちでミズキの金額のボタンを押している。


 やがて私は『トリ小屋』の当番をさぼりがちになった。

 なんだか、馬鹿らしくなっちゃって。


 でもそういう時は、身体を休めているミズキの隣に座って、くだらない話をたくさんする。手首なんか無くたって、ミズキはミズキのままだったし、私にとって、たった一人のルームメイトであることは間違いなかったから。


 だから、さっきのキスだってそう。

 今だけはミズキが望むものを、全てしてあげたかったんだ。


***


「どんっどんっ」

 扉を……蹴るような音がする。


 ゆっくりと立ち上がって、扉を開けると——

 二度目の手術を終えたミズキが満面の笑みで立っていた。


「たっだいま!」


 私は、思わず感情が極まると——彼女の唇に私の唇を合わせた。

 柔らかくて、温かくて、甘い唇。


 手術する前に、二人でキスをした時の感触と全く同じなのに。なのに。

 視線を落とすと、ミズキの着ているパーカーの両袖は、力なくだらんと垂れ下がっていた。


「おかえり、ミズキ」

 私はぎゅっと、彼女を抱きしめる。


「ただいま、アサミ」

 彼女は優しく答えてくれた。

 私のことを抱き返してくれる腕は、もうない。



 正直分からない。

 これでよかったかなんて。


 あの時。シブヤの屋上で。

「お願い、そんなことしないで!」

 って、止めたほうがよかったのかもしれない。


「ミズキは、今のままが一番最高だよ!私は今のあなたがいい!」って泣き叫んでいたら、こんなことにならなかったのかもしれないって。


 でも、そんなこと言えないよ……やっぱり。

 ミズキが抱えている迷いも、恐怖も、私は何も分かってあげられないって、分かっているから。

 だったらもう、私は、今のミズキを、完全に腕も、足も無くそうとしているミズキを受け止めるしかない。


 それに、やっぱり……ミズキが側にいてくれると、私も嬉しいんだ。

 頼りない先輩だし、記憶力も悪いし、同じことばっかり何度も言うし、でも、私だって、ミズキにはやっぱりいてほしいんだ。


「ミズキ」

 私は耳元で小さい声で言った。


「なに?アサミ」

「……大好き」


 こんな言葉、普段の私なら絶対に言わないのに。

 でも、この時は、他には何にも思い浮かばなかったんだ。


***


 ミズキの値段は30000円を超えた。

 私はもう、全くっていいほど『トリ小屋』に入る必要はなくなった。

 

 私は日々、両腕が無くなったミズキのお世話をし、食事を与え、シャワーを浴びせ、薬を飲ませる。


 そして、一日に何度も視線を絡め合うとキスをして、お互いの気持ちを確かめ合う。


 私がミズキに抱いている感情が本当に「愛」なのかは良く分からない。

 でも、ミズキは多分そのことも分かってくれていたんだと思う。

 

 だから、一度も「エッチしよう」とは、もうどちらも言わなかった。

 ただ、私がミズキのお世話をして、ミズキは仕事をして、2人で何度かキスをする。

 それだけのこと。それだけの日々。


 でも——とうとう来てしまったんだ。

 私とミズキのお別れの日。



 秋がもう終わりかけの肌寒い日の朝。


 玄関に並べたミズキのピンクのスニーカー。

 ミズキの少し細くなった足が差し込まれると、私はぎゅっと蝶々結びをする。


 彼女が着ているのは、いつもの変な模様が入ったパーカー。入るものがなくなった袖は重く垂れ下がったまま。

 私は、彼女のすっかり狭くなってしまった肩に、小さなショルダーバッグをそっとかける。


 「じゃあ、アサミ。行ってくるね」

 ミズキは寂しそうに笑う。

 

 私はもう、何も言えなかった。

 

 ミズキは今度の手術で両脚を落とす。

 頭だけを残した胴体。両腕と両脚をもぎとられた完全な四肢欠損状態『プレトルソ』になる。

 

 ここに帰ってくることは……もうできない。


 本当は、ミズキがプレトルソになったって、私と一緒に暮らそうよ、って叫びたい。

 私が、最後まで面倒見るからって。

 どんな姿になっても最後まで寄り添ってあげるからって叫びたい。


 でも、言えない。

 彼女が望んでいるのは、ただの身体だけじゃない。

 ミズキはアンプテの人間だけが持つ、美しさ、神々しさ、そしてその禍々しさに憧れているんだ。


 ここにいたら、ミズキはただの『トリ小屋』の『トリ』のまま終わってしまう。

 それは彼女の望むことじゃない。


 でも、何か言いたい。

 ミズキに何か声をかけたい。


 でも、分からない。

 励ましも、応援も、同情も全部空虚に思えて仕方ない。

 この思いを伝えるだけの言葉の力が、今の私には全然足りない。 


 せめて、ちゃんとお別れを言わなきゃだめなのに。

 「さようなら」でも、「ありがとう」でもちゃんと紡がないといけないのに。


 唇も喉も、接着剤で張り付けられたかのように動かなくて、何にも言葉を搾りだせない。


 熱い感情だけがぐるぐると体内を駆け巡って、止められない。

 

 涙だけがぽたり、ぽたりと垂れ落ちてくるばかり。

 肩の震えがどんどん大きくなってきて、私は思わず泣き叫んでしまいそうになった。



 「——アサミ、アサミ」

 何度も私を呼ぶ声が聞こえた。

 

 ゆっくりと顔を上げると、ミズキが初めて——先輩らしい優しい眼差しで私を見つめていた。


 「私さ、今初めて——腕を落としたことを後悔したかも」

 ミズキは苦笑いをしたまま続ける。


 「映画ならさ、かっこよく抱きしめてあげるところなのに、ごめんね」

 「でもさ、いつかお別れは来るんだ。それに絶対また会える。会えるから。約束するよ」


 だから——と大きく息を吸って彼女は言った。

 「行ってきます。またね」


 私は結局、何も言えないまま、ゆっくりと扉を開けた。

 終わりかけの秋の冷たい風と、ビルに遮られた微かな陽光が私たちを包み込む。


 彼女はもう、一度も振り返らなかった。

 パーカーの袖だけをフリフリさせて、しっかりとした足取りで私たちのトリ小屋から去っていった。

 

***

 

 ミズキはもう、帰ってこない。


 腕も脚もないプレトルソは普通に生活はできない。 

 だから、シンジュクにある『プレトルソ用のトリ小屋』に入るしかない。

 そこに入ったら、もう後は、意識がなくなるまで性行為をするだけなのだという。

 

 「そんなの、あんまりだよ……」

 私はいつものように窓から顔を出しながら、ミズキの姿を思い出してしまう。


 彼女が残していった多肉植物も、なんだか良く分からない甘ったるいお香の匂いも。

 一緒に使った黄緑のボトルも、赤いボトルも、全てそのまんま。

 主を失った、全く可愛くないぬいぐるみだってそのまんま。


 もちろん今日のフレーバーもピーチミント。


 彼女がいなくなって1カ月以上経っても、私は何にも変えられなかった。


 「いくら?」

 「5000円。サオ有りだけど」

 「3000円ならいいよ」

 

 しっしっと手で男を追い払うと私は1つ溜息をつく。



 ——夕方。部屋に戻っても、だらんと力なく座っていた頼りない先輩の姿はない。

 サムライの話、今ならいっぱい聞いてあげるのに。


 ざーっとシャワーを軽く浴びてから、扉の裏にくっついている宅配ボックスを確認すると、その中には先日注文していた『トリ』専門誌が入っていた。


 この雑誌。

 前にミズキが買ってきた雑誌。

 私がアンプテを知るきっかけの雑誌。


 ページを開くのは、正直怖い。

 でも、「絶対会えるから」というミズキの言葉。


 考えれば考えるほど、普通に会えるわけなんてなくて。


 一回は客として行こうかとも思ったけれども、シンジュク駅のすぐ近くの裏路地にあるプレトルソ小屋は最低でも10万を超えていた。そんなの、底辺のトリ小屋にいる私に払えるわけなんてない。


 だから、私は縋るような思いで……

 できればいてほしくない、と願いつつも、この雑誌だけはパラパラとめくっていた。


 トリ向けの美容やメイク、化粧品。

 最近話題のブクロで流行りのファッションコーディネート。

 有名企業の受付嬢に、深夜のコンビニ店員、怪しい新興宗教の巫女の求人情報。


 そして、アンプテのページ。

 でかでかとしたゴシックフォントでアピールされている

 『話題の新人プレトルソが誌面デビュー』の文字。


 思わず、心臓が止まりそうになる。

 お願い、どうかミズキじゃありませんように‥‥‥

 信じたこともない神様に何度も何度もお祈りして、

 恐る恐るページをめくると——私の全てが凍り付いた。



 そのページには、両腕と両脚をすべてもぎとられた、胴体だけの『トリ』が鮮やかな裸体を全てさらけ出して、満面の笑みを浮かべていた。

 

 青とピンクのメッシュが入った銀色の長髪も、私より大きく膨らんだ胸も、なくなりかけていた腰のくびれも、私が知っている彼女の身体そのままだった。


 その身体は、四角い棺のような箱の中にいれられていて、その周りには純白の花、恐ろしい程に白いカーネーションがびっしりと添えられていた。


 まるで……死者を送り出すような、厳かで、異様で、そして私が見てきた中で、もっとも美しい写真だった。


 「これが……死に方なの……」

 

私はぼとりと雑誌を取り落とすと、あとは嗚咽を吐き続けるしかなかった。

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