第九章 届かなかった距離 ―― 半歩の誤差
◾️何もなかった朝
朝の宮は、いつもと変わらない音を立てていた。
遠くで鳴る足音。
障子越しに落ちる、淡い光。
天音は、静かに目を覚ます。
胸に残っていたはずの重さは、朝の空気に薄められていた。
(……大丈夫。)
そう思える程度には、夜は過ぎている。
装束に袖を通し、帯を結ぶ。
動作は滞りなく、昨日と何も変わらない。
(……ちゃんと、できる。)
それが、少しだけ怖かった。
回廊に出ると、千景がすでに待っていた。
「おはようございます、影姫様。」
声は、いつも通りだ。
天音は一瞬だけ、千景の目を見る。
昨日のような硬さはない。
距離も、元に戻っている。
(……気のせい、だったのかな。)
そう思おうとして、その考えをそこで止める。
考えすぎる必要はない。
「……おはようございます。」
声は、落ち着いている。
蒼真も、少し遅れて姿を見せた。
「影姫様。」
その呼び方が、今日も変わらず落ちてくる。
一度。二度。
昨日より、ほんの少しだけ多い。
(……気のせい。)
天音は、自分にそう言い聞かせる。
歩き出すとき、天音は無意識に歩幅を詰めた。
千景との距離ではない。
蒼真との距離を。
ほんの半歩分。
理由はない。
意図もない。
ただ、近づきすぎないように。
蒼真は、その変化にすぐ気づいた。
だが、何も言わない。
「影姫様、本日の予定ですが——」
また、その呼び方。
蒼真自身は、いつも通りに話しているつもりだ。
だが、なぜか口にするたび、胸の奥で小さく何かが引っかかる。
(……こんなに、呼んでいたか。)
影姫様。
影姫様。
正しい。安全だ。距離を保てる。
それなのに。
天音の背が、ほんの少しだけ遠い。
千景は、二人の間に流れる空気を言葉にせず受け取っていた。
距離は、壊れていない。
掟も、守られている。
それでも。
(……動いている。)
何かが、静かに。
朝の光は、何も知らないまま、三人を包む。
何も起きていない。
何も変わっていない。
そう見える日常が、一番、危うい。
天音は、歩幅を保ったまま、前を向いた。
蒼真は、「影姫様」と呼びながら、理由の分からない違和感を積み重ねる。
千景は、何も言わない。
それぞれが、それぞれのやり方で距離を守ろうとして。
気づかないうちに、戻れない場所へ一歩ずつ進んでいるとも知らずに。
◾️届かなかった距離
その任務は、本当に些細なものだった。
城外れの見回り。
最近、人の出入りが増えているという報告があっただけ。
危険度は低い。
警戒は必要だが、戦う場面は想定されていない。
「影姫様は、少し後ろで状況を見ていただければ。」
千景の言葉に、天音は頷いた。
(……近づきすぎない。)
それが、この数日で身についた振る舞いだった。
蒼真は前に出る。
「影姫様、こちらは問題ありません。」
また、その呼び方。
天音は、ほんのわずかに歩幅を落とした。
蒼真との距離が、半歩、一歩。
理由はない。
ただ、踏み込みすぎないため。
そのときだった。
——ガラッ。
足元の石が崩れた。ほんの小さな音。
だが、次の瞬間には事態が変わる。
天音の足が、滑った。
(……っ。)
声を出す間もなく、身体が傾く。
蒼真が振り返る。
「影姫様——!」
反射的に手を伸ばす。
だが。距離が、ほんの少し遠かった。
指先が、届かない。
天音の身体が、地面に倒れ込む。
大した高さではない。
怪我も、致命的ではない。
それでも。
土の上に膝をつき、息を詰めた天音の姿を見て、蒼真の胸が強く跳ねた。
「……っ、失礼します!」
駆け寄り、肩を支える。
天音は、一瞬だけ蒼真を見上げた。
その目に浮かんだのは、驚きではなく——戸惑い。
(……近づきすぎた。)
そう思った自分に、天音は気づいてしまう。
「……大丈夫です。」
すぐに身を離そうとする。
蒼真の手が、一瞬だけ、躊躇した。
(……離すな。)
そう思ったのは、護衛としてではなかった。
千景が、静かに状況を確認する。
「怪我はありませんか。」
天音は、小さく首を振る。
「……ありません。」
本当だ。
それでも、空気が変わっていた。
蒼真は、天音から一歩離れ、深く頭を下げた。
「……不覚でした。」
その声は、低く、硬い。天音の胸が、小さく痛んだ。
(……私が、距離を取ったから。)
そう考えてしまう。
千景は、何も言わなかった。
言う必要がないことを、分かっている。
距離を取ったことは、間違いではない。
だが——距離を取りすぎた。
それだけのこと。
任務は、何事もなく終わった。報告書には、小さな転倒と記されるだけ。
だが。蒼真の中には、確かな震えが残っていた。
(……届かなかった。)
ほんの一歩。
その一歩が、どれほど恐ろしいかを、初めて知ってしまった。
天音は、自分の膝に付いた土を払いながら、胸の奥で小さく呟く。
(……近づかないことが、守ることじゃない時もある。)
その考えに、自分で驚く。
千景は、二人の様子を影の中から見ていた。
(……起きた。)
止められないと、分かっていた。
誰も悪くない。
掟も守られている。
それでも。影は、一瞬、届かなかった。
その事実だけが、三人の胸に静かに残った。
恋演舞 ─ 花は影に咲き、恋は名を失う ─ 朔 龍麻|Saku Ryuma @SakuRyuma
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