第八章 名を呼ばぬという選択 ―― 近づかなかった距離
◾️名を呼ばぬという選択
影姫が立ち止まり、こちらを振り返ったとき。
千景は、ほんの一瞬だけ、息を止めた。
「……千景、」
その声は、確かに自分を呼ぼうとしたものだった。
だが、その続きを天音は飲み込んだ。
「……失礼しました。」
距離を戻す声。
影姫の声。
千景は、即座に膝をついた。
「……影姫様。」
そう返すのが、正しい。呼ばれなかったことに、安堵すべきだ。
掟は守られた。
距離は保たれた。
——それなのに。
胸の奥に、小さく、鈍い痛みが走った。
(……今のは。)
千景は、顔を伏せたまま考える。
影姫は、名を呼んではならない存在ではない。
それでも、天音は呼ばなかった。
呼べなかったのではない。
呼ばなかった。
(……自分で、引いた。)
千景は、その事実に気づいてしまう。
掟に従ったのではない。
命じられたわけでもない。
影姫自身が、一歩踏み込みかけた足を、自分で戻した。
(……あまりにも、正しい。)
正しすぎて、影姫である前に、ひとりの人間が削れていく。
影姫は、誰よりも影姫として振る舞っている。
だがその振る舞いが、どこか痛ましい。
千景は、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
(……それで、誰が守られている。)
国か。
掟か。
それとも——自分か。
影姫は、自分を守るために、人としての衝動を切り捨てた。
千景は、その選択を否定できない。
否定できないからこそ、止める言葉も持てない。
(……この距離は。)
一度、影姫自身が選んだ距離だ。
誰かが壊さない限り、縮まらない。
そして、壊せば必ず、誰かが壊れる。
千景は、ゆっくりと立ち上がる。
蒼真の背中が、少し先に見えた。
あの男は、まだ気づいていない。
影姫が、自分自身を削っていることに。
(……いずれ、気づく。)
そのとき、蒼真は自分を責めるだろう。
だがそれは、今日ではない。
今日、この場でできることは一つしかない。
——沈黙すること。
千景は、何も言わず、再び影姫の後ろについた。
影の距離を守りながら。
その距離が、いずれ戻れなくなると知りながら。
◾️届かない距離
回廊を進みながら、天音は、歩幅をひとつ数え損ねた。
ほんのわずか。
昨日までなら、気にも留めなかった程度のズレ。
それでも、足を止めずにはいられなかった。
(……あれ。)
前を行く千景の背が、少しだけ遠い。
距離そのものは変わっていない。
位置も、姿勢も、いつもと同じ。
それなのに。
声をかける前に、胸の奥で何かが引っかかった。
(……さっき。)
自分は、何を言いかけたのだったか。
名前——
そう、名前を呼びかけた。
呼ぼうとして、やめた。
天音は、そのときの自分の選択を思い出す。
呼べなかったわけではない。
呼んではいけないと、命じられてもいない。
ただ——
呼んでしまえば、踏み込んでしまう気がした。
人としての世界に。
影ではない場所に。
だから、引いた。
正しいと思った。
影姫として。
それなのに。
(……千景。)
心の中で名をなぞった瞬間、胸の奥が、ひやりとする。
先ほどより、千景の声が少ない。
必要なことだけを告げ、それ以上は、付け足さない。
距離を、戻されたような気がした。
(……私、何か、間違えたのかな。)
理由は見つからない。
掟は破っていない。
余計なことも言っていない。
感情を露わにした覚えもない。
なのに。
千景は、こちらを見ない。
視線が合わない、というほど露骨ではない。
ただ、“合わなくなった”。
その微細な違いが、天音の胸を、静かに締めつける。
(……正しかったはずなのに。)
影姫として、正しい距離に戻っただけ。
そう言い聞かせても、胸の奥に残るのは、安心ではなく、小さな寂しさだった。
天音は、その感情に名前をつけない。
つけてしまえば、影ではいられなくなる。
歩きながら、ふと前を見ると、蒼真の背中があった。
変わらない歩調。
変わらない距離。
けれど、その背中が、今日は少しだけ“こちらを意識している”ように感じる。
(……見られている?)
視線を向けると、蒼真はすでに前を向いていた。
気のせいかもしれない。
天音は、自分の感覚を疑う。
昨日から、感じすぎているだけだ。
慣れてきたせいで、細かなことが気になる。
影姫として、よくない兆し。
(……戻ろう。)
正しい距離へ。
人としての世界に、首を突っ込まないために。
天音は、歩幅を整え、静かに前を向いた。
千景の背は、もうすぐそこにある。
それなのに、手を伸ばしても届かないような気がした。
その感覚が、なぜか胸に残る。
影姫として、正しく振る舞ったはずなのに。
人の心は、どうしてこうも、正しさに追いついてくれないのだろう。
天音は、その問いを、誰にも渡さず、自分の中に沈めた。
影として生きるなら、答えは、いらない。
そう——信じるしかなかった。
◾️見えてしまった間
回廊を歩きながら、蒼真は足音の数を無意識に数えていた。
いつもと同じ。
距離も、配置も、歩調も。
——そのはずだった。
(……違う。)
理由は分からない。
変化を示すものも、はっきりとは見当たらない。
それでも。
後ろの気配と、前の気配の“あいだ”に、何かが挟まったような感覚があった。
蒼真は、ちらりと視線を横に流す。
影姫は、少しだけ歩幅を整えていた。
ほんの一瞬。言葉にするほどではない。
だがその一瞬が、やけに引っかかった。
(……さっき、何かあったか。)
千景の背中を見る。
姿勢は変わらない。
視線も、いつも通り前を向いている。
それなのに。
二人の間に、説明できない“間”がある。
(……距離を、取り直した……?)
そんな言葉が、ふっと浮かんで、すぐに消える。
影姫と従者。
距離があるのは当然だ。
なのに。
蒼真は、胸の奥に小さなざらつきを覚えた。
(……俺は、何を気にしている。)
気にする必要はない。
影姫は影。
自分は護衛。
それ以上でも、それ以下でもない。
蒼真は、いつも通り声をかける。
「……影姫様。」
その呼び方は、何度も繰り返してきたものだ。
正しく、安全で、距離を保つ言葉。
だが。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、小さく何かが引っかかった。
(……なぜだ。)
呼び方は間違っていない。
掟にも反していない。
なのに、さっきよりも、少し遠い。
影姫が、わずかにこちらを振り返る。
「……何でしょう。」
声は、落ち着いている。
それが、逆に引っかかる。
(……落ち着きすぎている。)
蒼真は、それ以上、何も言わなかった。
言葉を続ければ、この“違和感”に触れてしまう気がした。
千景が、影姫の前に一歩出る。
「影姫様。この先、曲がります。」
影姫は頷き、再び前を向いた。
そのやりとりを、蒼真は黙って見ていた。
(……俺の知らないところで、何かが、もう始まっている。)
そう感じたのは、初めてだった。
蒼真は、自分が少し遅れていることを自覚する。
理由が分からないまま。
追いつくこともできないまま。
それでも。
視線だけは、離せなかった。
影姫が、ほんのわずかに肩を落としたように見えた。
気のせいかもしれない。
疲れのせいかもしれない。
だが蒼真は、その“気のせい”を無視できなかった。
(……影姫。)
名ではなく、役割で呼んだその存在が、なぜか胸に残る。
守るべきもの。
距離を保つべきもの。
そう分かっているのに。
“正しい距離”が、少しずつ、ずれていく。
蒼真は、そのズレを修正する術を、まだ知らない。
ただ。
このまま進めば、何かを見逃す。
そんな予感だけが、胸の奥に、静かに沈んでいた。
◾️呼ばない夜
部屋に戻ると、灯りは最初から落とされていた。
影姫の部屋は、いつも夜が早い。
天音は、静かに装束を解く。
指先の動きは、もう迷わない。
(……慣れた。)
その事実に、胸の奥が少しだけ重くなる。
昼間のことを、思い出す。
呼びかけようとして、やめた瞬間。
(……あれで、よかったはず。)
正しい距離。
正しい振る舞い。
影姫として、間違っていない。
それなのに。
胸の奥に、小さな澱のようなものが残っている。
名前を、呼ばなかっただけ。それだけのこと。
でも。
(……疲れた。)
天音は、その言葉を心の中でだけ呟く。
誰にも聞かせない。
自分にも、あまり聞かせたくない。
影姫が、そんなことで疲れるはずがない。
分かっている。それでも。
呼ばないでいると、呼びたい理由をずっと意識してしまう。
意識しないために、距離を取っているはずなのに。
距離を取るたび、そこに“何があるか”を考えてしまう。
天音は、布団に横になる。
天井を見つめながら、目を閉じる。
(……明日も、ちゃんとできる。)
そう、自分に言い聞かせる。
影姫として。
影として。
人としての世界に、足を踏み入れないように。
けれど。
眠りに落ちる直前、胸の奥に浮かんだのは——
呼ばなかった名前だった。
呼ばないと決めたはずの、その音。
天音は、それを振り払わない。ただ、静かに受け止める。
(……少しだけ。)
少しだけ、疲れた夜。
それだけのことだと、自分に言い聞かせながら。
影姫の夜は、何事もなかったように、更けていった。
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