第七章 影に馴れる頃 —— 壊れていないという錯覚
朝の宮は、夜よりも冷えていた。
天音は、いつものように静かに目を覚ます。
目覚めの瞬間、一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなくなる。
白い天井。
静まり返った空気。
障子越しの淡い光。
(……そうだ。)
ここは、影姫の部屋。
天音は、ゆっくりと身体を起こした。
昨日までより、この場所に少しだけ慣れている自分に気づき、それが少し怖かった。
慣れてしまえば、失ったものを思い出さなくなる。
(……だめ。)
そう思いながらも、手は自然と装束に伸びていた。
影姫の衣は、相変わらず重い。
けれど、昨日よりも指が迷わない。
天音は鏡の前に立つ。
そこに映るのは、“天音”ではない姿。
影姫。
名を持たず、役目だけを持つ存在。
(……わたしは。)
考えかけて、天音はその思考を止めた。
考えすぎると、心が揺れる。揺れれば、影姫としては失格だ。
「……影姫様。」
障子の向こうから、千景の声がした。
「お目覚めでしょうか。」
天音は小さく息を整え、答える。
「はい。」
その一言に、もう違和感はない。
千景は一歩も中へ入らず、必要なことだけを簡潔に伝える。
「本日の予定です。午前は報告の確認、午後は簡単な視察。危険度は低いとのことです。」
危険度は低い。その言葉に、胸がわずかに緩む。
(……“低い”でも、“ない”わけじゃない。)
それでも、昨日のような緊張はなかった。
天音は、自分が少しずつ“影姫として振る舞えている”ことを、否定も肯定もできずに受け止めていた。
回廊に出ると、蒼真が既に待っていた。
背筋を伸ばし、周囲に気を配るその姿は、昨日と何も変わらない。
「……おはようございます。」
蒼真がそう言って、深く頭を下げる。
その声は、昨日よりも少しだけ落ち着いていた。
「……おはようございます。」
天音も、同じ調子で返す。
それだけのやりとり。なのに、胸の奥で何かが動いた。
(……昨日より、自然だ。)
それが良いことなのか、悪いことなのか。天音にはまだ分からない。
三人で歩く回廊は、静かだった。
特別な会話はない。
必要な言葉だけが、必要な分だけ交わされる。
それなのに。
沈黙が、不思議と重くなかった。
天音はそのことに、気づいてしまう。
(……慣れてしまっている。)
千景は、天音の歩調に合わせて歩いている。
蒼真は、わずかに前を行きながら、視線を巡らせている。
昨日まで、この距離がこんなにも自然に感じられるとは思っていなかった。
(……影姫は、孤独な存在のはずなのに。)
その考えが浮かんだ瞬間、天音は自分の中で何かを戒めた。
孤独であるべきだ。
孤独でなければならない。
それなのに。
「……何かありましたか。」
蒼真が、前を向いたまま声をかけた。
天音は一瞬、自分が見られていたことに驚く。
「いえ……。」
短く答える。
蒼真はそれ以上、何も聞かなかった。その距離感が、なぜか心地よい。
心地よいと感じてしまうことが、少し怖い。
(……これは、 影姫として正しいの?)
答えは出ない。ただ、日常は始まってしまった。
静かで、穏やかで、何も壊れていないように見える日々。
天音はまだ知らない。
この“慣れ”こそが、最も危ういものだということを。
名を呼ばれぬ時間の中で、人の心は、静かに近づいてしまうということを。
そしてその距離が、いずれ戻れなくなることを。
朝の光は、何も語らず、宮を淡く照らしていた。
その日の任務は、“視察”と呼ぶにはあまりにも小さなものだった。
城下に近い交易路で、影の者たちの動きが鈍っているという報告。
不穏ではあるが、緊急性は低い。
「影姫様は、状況の確認のみで構いません。」
千景はそう告げ、蒼真も異論を挟まなかった。
天音は頷く。それが、影姫としての“正しい反応”だと、もう分かっている。
道中、目立った異変はなかった。
人の往来。
商人の声。
遠くで鳴る鍛冶の音。
(……静か。)
昨日の森とは、まるで別の世界だ。
天音は、その静けさの中に、少しだけ気を緩めている自分に気づく。
(……慣れてきている。)
影姫として、この役目に。それが、なぜか怖かった。
交易路の外れで、小さな騒ぎがあった。
荷車が倒れ、積み荷が散乱している。
「……すみません…… 車輪が……」
若い商人が、困り果てた顔で頭を下げている。
危険ではない。敵でもない。
蒼真が一歩前に出ようとした、そのとき。
「……待って。」
天音の声が、静かに落ちた。
蒼真が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
千景も、何も言わず天音を見る。
「……確認だけ。」
天音は、倒れた荷車と周囲を見渡す。
不自然な影はない。殺気もない。
ただの事故だ。
「問題ありません。」
そう告げたあと、天音は一瞬だけ迷ってから、続けた。
「……手を貸しても、 差し支えは?」
千景の視線が、わずかに揺れた。
掟としては、必要ない。だが、禁止されてもいない。
蒼真が短く答える。
「……構いません。」
二人が荷車を起こす間、天音は少し離れた場所で見守っていた。
それだけのこと。
それだけ、のはずだった。
商人が何度も頭を下げる。
「助かりました…… ありがとうございます。」
天音は、何と返していいか分からず、ただ小さく頷いた。
“影姫”として、それ以上の言葉は必要ない。
帰路についたあと、しばらく誰も口を開かなかった。
沈黙は、昨日よりも自然だった。
それが、さらに天音の胸をざわつかせる。
(……あれ?)
ほんの小さな違和感。
影姫は、人と関わらない存在のはずだ。
それなのに。
蒼真が、前を歩きながら言った。
「……判断が、早くなりましたね。」
天音は、思わず彼を見る。
蒼真は振り返らない。ただ、事実を述べただけの声。
「……そうでしょうか。」
「はい。」
それだけ。
褒めるでもなく、評価するでもなく。
それでも、胸の奥が、ほんの少しだけ熱を持った。
(……なぜ?)
その瞬間、千景が静かに口を開いた。
「影姫様。お戻りになったら、本日の記録を残していただきます。」
その声は、いつもより少し硬かった。
天音は、その硬さに気づく。
蒼真も、一瞬だけ千景を見る。
何かが、ほんの少しだけ噛み合っていない。
誰も、はっきりとは言わない。
言葉にするほどのことではない。
けれど。
(……さっきのは、影姫として、正しかったのかな。)
天音の胸に、小さな問いが残る。
助ける必要はなかった。でも、助けてはいけない理由もなかった。
その“隙間”が、なぜか気になる。
宮へ戻る途中、天音はふと立ち止まった。
天音は「……千景。」と呼びかけた。
千景はすぐに振り返り、膝をつく。
「……失礼しました。影姫様。」
天音は、胸の奥がひやりとするのを感じた。
(……そうだ。)
名前は、呼べてしまう。
だからこそ、呼んではいけない気がした。
この距離を、ただの“役目”のままで保たなければならない。
それでも。
ほんの一瞬だけ、三人の間に流れた沈黙は、昨日とは違う質を帯びていた。
何も壊れていない。
掟も破られていない。
けれど。
人の心は、理由もなく、静かに近づいてしまう。
それが、戻れなくなる距離だと気づく頃には、もう——
影は、影だけではいられなくなっている。
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