第六章 踏み越えない夜 —— 名を知ったまま、沈黙を選ぶ

◾️見てしまったもの


任務が終わり、宮へ戻る頃には、夜が深まっていた。

任務は成功だった。それだけのはずだった。


影の回廊は昼よりも静かで、足音すら吸い込まれていく。

蒼真はいつも通りの距離を保ち、影姫の後ろを歩いていた。


——それでいいはずだった。


(……異常はない。)


影姫は無事。

任務も滞りなく終わった。

報告も問題ない。


——それなのに。


胸の奥に、小さな“引っかかり”が残っている。


理由は分からない。

言葉にもならない。


ただ、消えない。


森での一瞬が、何度も脳裏に浮かぶ。


影姫が、ほんのわずかに視線を止めた瞬間。


(……見えていた。)


偶然ではない。勘でもない。

影姫は、確かに“見抜いた”。


(あれは……)


影姫としての才か。それとも、ただの偶然か。

どちらにしても、蒼真が考える必要はないはずだった。


影姫は影。判断する存在。

自分は護衛。従い、守るだけ。

なのに。


「……。」


無意識のうちに、蒼真は影姫の背を見つめていた。

歩幅は小さい。装束の裾を、わずかに握っている。影姫としては、決して理想的な所作ではない。


“影姫らしくない”と感じた自分に、苛立ったのかもしれない。


——なぜだ。


らしくなくて、何が悪い。

影姫は影姫だ。それ以上でも、それ以下でもない。

蒼真は視線を逸らし、拳を軽く握る。


(考えるな。)


影姫に感情を向ける必要はない。向けてはならない。

だが、“天音”という名が、不意に脳裏をよぎった。


儀式のときに知った名。

呼んだことはない。

呼ぶ資格もない。


それなのに、名だけが、静かに残っている。


(……なぜ、名を覚えている。)


忘れればいい。

忘れなければならない。


影姫には名はない。

名を持たないからこそ、影姫なのだ。


それでも。


森で見せた、あの一瞬の眼差し。


(……あれは、影姫の目じゃない。)


断言できない。

だが、そう思ってしまった。

蒼真は、自分の思考にわずかな不快感を覚える。


(余計なことを考えるな。)


部屋へ戻る途中、影姫が一瞬だけ足を止めた。


「……ありがとうございました。」


小さな声だった。

影姫としてではなく、どこか人の声に近い。

蒼真は一拍遅れて答える。


「……務めです。」


それだけ。

それ以上、言うべき言葉はない。

影姫は何も言わず、静かに部屋へ戻っていった。


障子が閉まる音。

蒼真は、その前で立ち尽くす。

(……何だ。)

何が、こんなにも引っかかる。

任務は成功した。影姫も無事。それで十分なはずだ。


それなのに、胸の奥に残るのは、“守れた”という感覚ではなく——


(……見てしまった。)


そんな感覚だった。

蒼真は小さく息を吐き、闇の中へ視線を落とす。


影姫に感情を向けるな。

名を呼ぶな。

近づくな。


そう自分に言い聞かせながら、それでも消えない違和感を、まだ“違和感のまま”抱えていた。


恋ではない。

欲でもない。

ただ、静かに残るもの。


それが、後に自分を壊すものになるなど——この夜の蒼真は、まだ知らない。




◾️呼ばなかった名


部屋に戻ると、外の気配がすっと遠のいた。

障子一枚隔てただけなのに、世界が切り離されたように静かだった。

天音は、そっと装束の袖を握りしめる。

まだ、自分の体に馴染んでいない。

(……影姫。)

その言葉を心の中でなぞるたび、胸の奥がひやりとする。


初めての任務。

初めての判断。


怖かった。

本当に、怖かった。


森の中で、あの気配に気づいた瞬間。


(間違えたら……)


蒼真や千景が、刃を振るう未来が、一瞬だけ脳裏をよぎった。


もし、自分の目が誤っていたら。

誰かの命を、自分が奪わせていたかもしれない。


天音は、小さく息を吐いた。

(……でも。)


あのとき、なぜか、見えた。

はっきりと、ではない。

けれど、「違う」と感じた。


それが、影姫の才なのか、ただの偶然なのか。

まだ、分からない。


でも。千景が言った言葉が、胸に残っている。


――影姫様の判断通りでした。


その声は、褒めるためのものではなかった。

ただ、事実として告げられた言葉。


(……それでも。)


胸の奥が、少しだけ、温かくなった。

役に立てた、かもしれない。

そんな考えが浮かんだことに、天音は小さく首を振る。


(だめ……。)


影姫は、喜んではならない。誇ってはならない。

ただ、影として在るだけ。それなのに。

帰り道で、蒼真が言った声が、なぜか耳から離れなかった。


「……務めです。」


それだけの言葉。冷たくも、優しくもない。

なのに、胸の奥に残っている。


(……蒼真。)


名を呼ぶことは、禁じられてはいない。

きっと、呼ぼうと思えば呼べる。

それなのに。

その名を口にした瞬間、何かが崩れてしまう気がして、天音はその音を、胸の奥へ押し込めた。


でも。

森で前に立ってくれた背中。

何も言わず、ただ守る位置に立った姿。


(……あの人は。)


影姫を守っている。

きっと、それだけ。

そう思おうとした瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。


(……それだけ、なのかな。)


理由はない。言葉にもならない。

ただ、胸の奥に、小さな問いが落ちた。


天音はその問いを、そっと伏せる。

今は、考えてはいけない。

影姫として、一日目が終わっただけ。


これから、もっと多くの任務があり、もっと多くの判断があり、もっと多くの影を見ることになる。

今日のことは、その最初にすぎない。


天音は、ゆっくりと横になった。

灯りを落とすと、部屋は闇に溶ける。闇の中で、天音は静かに目を閉じた。


(……大丈夫。)


そう、自分に言い聞かせる。影姫として、生きていける。

きっと。


この夜、天音はまだ知らない。

自分の一瞬の判断が、誰かの心に消えない痕を残してしまったことを。


そして——

“影姫”としての自分よりも先に、“天音”という名が、誰かの胸に静かに根を下ろしてしまったことを。


闇は、何も答えない。

ただ静かに、新しい一日が来るのを待っていた。




◾️壊れる覚悟


宮に戻ったあとも、千景の中には任務の気配が残っていた。


外縁の森の湿った空気。影の揺れ。

そして——

影姫の、あの一瞬の判断。


(……正しかった。)


あれは偶然ではない。勘でもない。

影姫は、影姫として“見るべきもの”を見た。

千景は歩みを止め、暗い回廊の柱に背を預ける。


(才がある。)


そう断じるのは簡単だった。

影姫として、あの判断は正しい。

だが同時に、胸の奥に別の感情が残っている。


(……それでも。)


名を封じられたばかりの少女が、あの場で、誰かの命の行方を左右する判断をした。

それが、影姫という存在の本質だと分かっている。

分かっているからこそ、消えないものがあった。


(早すぎる。)


影姫として目覚めるには、あまりにも。

千景は目を閉じ、静かに息を吐く。


影姫は孤独であるべきだ。

誰にも寄り添われず、

誰にも寄り添わず。


——それが、国を守るための仕組み。


それなのに。


(……蒼真。)


森での蒼真の動きが、脳裏をよぎる。

天音の前に立ったときの、一瞬の速さ。

それは護衛として正しい。正しい、はずだ。


だが——

その動きには、“職務以上の切迫”があった。


(気づいていないな。)


蒼真自身は、まだ何も自覚していない。

だからこそ、厄介だ。


千景は、蒼真が天音を見る視線を思い返す。

見張る視線ではない。

評価する視線でもない。

(……見てしまった者の目だ。)

影姫の判断を。影姫の才を。


そして——

影姫である前の、“名を持っていた少女”の痕跡を。


千景は、小さく唇を噛んだ。

(これ以上、誰かが踏み込めば……)

何が起きるか、分からないわけではない。


影姫が掟を破れば、処罰される。

蒼真が掟を破れば、処罰される。

——影姫と護衛、両方が壊れる。


それでも、止める言葉が見つからない。

忠誠はある。

覚悟もある。

だが、感情を完全に切り離すほど、千景は機械ではなかった。


(影姫様。)


心の中で呼びかけ、すぐにその名を封じる。

呼んではならない。

名は、影を狂わせる。


それでも。

あの判断の瞬間、天音の瞳に宿ったものは——

影の冷たさではなく、“理解しようとする人の光”だった。


(……厄介だ。)


千景は、ゆっくりと立ち上がる。

自分は忠臣だ。

影姫の剣であり、盾であり、掟の番人だ。


だからこそ。

(誰かが壊れる前に、自分が壊れるべきなのかもしれない。)

その考えに、千景自身が静かに驚いた。

だが否定はしなかった。


影の回廊を歩きながら、千景は決して表に出さない決意を胸に刻む。


蒼真が踏み込みすぎれば、自分が止める。

影姫が揺らげば、自分が支える。


——たとえ、それが後に最も残酷な役目になるとしても。


千景は立ち止まり、影姫の部屋の方角を見やった。

扉の向こうに、名を失った少女がいる。


(……まだ、何も知らなくていい。)


そう願いながら、千景は再び影の中へと戻っていった。


この夜、三人の心はそれぞれ別の場所で、同じ方向へ——

静かに、そして確実に、踏み出してしまっていた。

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