第五章 影としての選択 ―― 忘れられぬ恋を抱いたまま、影に咲く。
〜初任務:影の呼び声〜
天音が部屋に戻って間もなく、障子の向こうから小さな音がした。
“コン……コン……”
千景の声だった。
「影姫様。初任務のご案内に参りました。」
胸が、かすかに跳ねた。
影姫として生きると決まった以上、いずれ避けられないものだと分かっていても、
(……来てしまった。)
という思いが、静かに天音の胸を締めつけた。
襖を開けると、千景と蒼真が揃って膝をつき、深く頭を垂れた。
影姫を迎える正式な姿勢。
けれど、その静かな光景が、わずかに現実味を失って見えた。
千景が顔を上げ、淡々と告げる。
「影姫様。第一の任務は“観察”でございます。」
観察……?
天音は小さく瞬きをした。千景は続ける。
「王城の外縁にて、不穏な動きが報告されました。敵対勢力の影が城近くを徘徊しているとのこと。」
天音の胸がわずかに強張る。
「わたしが……敵と……?」
千景は静かに首を振った。
「戦う必要はありません。影姫が現場に赴き、“目”になるのです。」
“目”。
影として、王の代わりに見て、判断する者。
自分の判断が、誰かの生死に関わるということ。
千景の声は揺れず、しかしどこか痛みを隠そうとする気配が漂った。
「影姫様の存在を知られてはなりません。わたしたちが必ず護ります。」
その言葉に、天音の胸に微かな温度が灯る。
しかし、温かさと同じくらいの恐れもあった。
「……参りますか?」
蒼真が静かに問いかけた。
表情は動かない。
だが声の奥に、聞き慣れない“ひっかかり”があった。
昨日まではなかった感覚。
天音は息を整え、小さく頷いた。
「参ります。」
その一言に、千景は深く頭を下げ、立ち上がる。
蒼真も無言で後に続く。
天音は二人の背中を見ながら、胸の奥に生まれる微細な震えを抱きしめるように歩き出した。
〜影の回廊 ― 任務地へ向かう〜
足音だけが、暗い回廊に薄く伸びていく。
光はほとんど届かない。
天井の篝火がかすかに揺れ、壁に落ちる影を細く震わせた。
千景は前を歩きながら説明する。
「影姫様。外縁では敵の足音が増えております。影姫が姿を見せることは許されません。」
蒼真が続ける。
「危険があれば、わたしが前に出ます。」
その言葉は淡々としていたが、天音の胸には妙に強く響いた。
(……どうしてだろう。蒼真の言葉が、冷たいようで、どこか……優しい。)
影の回廊を抜けると、外の空気が一気に流れ込んできた。
冷たい風。
木々のざわめき。
人のいない静寂。
天音は息を吸い込み、空を見上げた。
その瞬間、胸に落ちる不安が少しだけ軽くなる。
(……まだ怖いけれど……でも、わたし……大丈夫……かな。)
しかし、その背で蒼真は小さく息を呑んでいた。
(影姫のくせに……そんな表情をするな。)
そう思うのに、目が離せなかった。
千景もまた、天音の揺れる黒い瞳を見て、胸の奥をかすかに掠める痛みに気づく。
影姫と護衛ふたり。
三人の“距離”が、気づかぬうちに変わり始めていた。
〜初任務:影の森〜
外縁の森は、王城の静けさとはまるで違う空気を纏っていた。
風が枝葉を揺らし、どこかで獣の遠い声が響く。
草の匂い、湿った土の匂い。
全てが“生きている世界”の匂いだった。
天音はその場に立ち、初めて影姫として外の空を見上げた。
森の木々が重なり、空は細い線になって覗いている。
その細い光が、逆に森の深さを際立たせていた。
千景が前方を見据え、低く声を出す。
「……ここから先、敵影が徘徊しています。」
蒼真は無言のまま、手を軽く後ろへ回して天音を守る位置に入る。
その動きには一切の迷いがなく、刃のような緊張が背に走っていた。
天音は、そっと息をのむ。
(こんなに……怖い世界だったんだ。)
王宮の静かな空気とはまるで違う。
風の音一つが、まるで脅威に聞こえる。
足元の枝を踏む音が、敵に届くようで怖かった。
そんな天音の心を察したように、千景が振り返った。
「影姫様。ここからは、声を出さずに動いてください。」
天音は頷く。千景はさらに言う。
「影姫は“見抜く者”です。敵がどこに潜み、何を狙い、どの方角から風が流れ、どこに影が落ちるか……すべてを見てください。」
すべてを——見てください。
その言葉が、天音の胸に深く響いた。
蒼真が横で静かに補足する。
「影姫様の判断が、わたしたちの命を左右します。」
それは脅しではなく、事実の声。
静かに。
淡々と。
揺れのない、影の声。
天音は息を吸い込み、森の空気を胸に入れた。
かすかな湿気と、土のにおいと、冷たい風の感触。
そして——音のない世界のざわめき。
(見える……気がする。)
森の奥に、小さく揺れる陰があった。
木々の根元で、何かが微かに動く。しかし音はしない。
風の向きが変わり、枝葉が別の方向に揺れる。
その揺れ方が、風だけではない“不自然な揺れ”を孕んでいた。
(……あそこ……?)
天音の視線が一方向で止まる。
千景が、その視線の先を追う。
「……気づかれましたか。」
声に、微かな驚きと感嘆が混じった。
天音は自分の胸が震えたことに気づく。
蒼真がわずかに眉を上げた。
「……確かに何かいる。」
その瞬間、森の奥からわずかな殺気が走った。
気配は薄い。だが確かに、人の気配。
天音は息を止める。
蒼真は瞬時に天音の前へ出た。
千景は逆側の木の影に滑り込み、敵影の動きを読む。
天音の心臓が早鐘のように鳴る。
(こわい……でも……)
影として、見なければならない。
千景が低く告げる。
「影姫様。敵影はひとり……森の斜面に身を潜めています。こちらをうかがっている。」
蒼真が刀に手を添えた。
その動きは、まるで風を裂く前触れのように静かで鋭い。
だが千景は蒼真を止めるように言う。
「……影姫様の判断を。」
天音は、息を呑む。
これが影姫の役割。自分が“見て判断”しなければならない。
怖い。逃げたい。震えが止まらない。
でも——。
(わたしは……影姫……)
天音は震える手を握りしめ、ゆっくりと視線を森の奥へ向けた。
そして、静かに、口を開く。
「……敵意は……薄い。けれど……こちらを、探っている。」
千景の目がわずかに見開かれた。
蒼真は目を伏せ、小さく息を吐く。
「判断、承りました。」
千景が頷き、動いた。
蒼真も天音を守りながら森の影へと入っていく。
天音はその場に立ち尽くしながら、胸の奥に生まれた奇妙な感覚に気づいた。
(……わたし……見えた……の……?)
怖かったはずの世界が、ほんのわずかに開いて見えた。
影としての“目”が、確かにそこに芽生え始めていた。
〜初任務:影たちの応答〜
天音の判断を受けて、千景は森の影へと滑り込んだ。
その動きは音もなく、草の揺れさえ残さない。
蒼真は反対側を回り込み、天音を守る位置を絶対に崩さなかった。
森の奥で、小さな気配が揺れる。
殺気とは呼べないほど薄い。
怯えと焦りが入り混じったような、人の影。
千景が木立の隙間から姿を見せずに言葉を落とす。
「出てこい。……見えている。」
声は低く、響く。
だが脅しではなく、諭すような静かな圧。
その瞬間、かすかに枝葉が揺れた。
細い影が一つ、斜面から転がり落ちるように姿を現した。
若い男だった。
敵兵にしては装束が粗い。
身なりも整っておらず、武器も小刀一本。
蒼真が瞬時に天音の前に出る。
千景は男から視線を外さない。
「ち、近づくな……!俺は……ただ……!」
声は震え、必死だった。千景はわずかに目を細める。
(……やはり。影姫様の判断は正しかった。)
敵意は薄い。殺気もない。ただ、恐れと焦りだけが混じっている。
逃げ場を探し、森を彷徨っていただけ。
男がさらに下がろうとした瞬間——蒼真が静かに告げた。
「動くな。」
その声には、刃の光のような冷たさがあった。
だが、攻撃する気配はない。
男の呼吸が止まり、蒼真を見る。
千景が前に出る。
「お前は何者だ。」
男は震えながら答えた。
「し、下の村の者だ……!盗賊の気配がしたから……様子を……」
息を吐いた蒼真の肩が、わずかに緊張を解いた。
天音はその姿を見て、胸がかすかにきゅっとなる。
(……よかった……本当に……敵じゃなかった……)
けれどなんとなく、胸の奥が重い。
自分の判断ひとつで、誰かの運命が決まる。
たった今、もし自分が「敵だ」と誤った判断をしていたなら——
蒼真か千景の刃が、この男の命を奪っていたかもしれない。
その現実が、静かに天音の心を締めつけた。
千景は男の怯えを確認すると、静かに言った。
「この森には二度と近づくな。……命が惜しいなら。」
男は深く頷き、森の奥へ逃げ去っていった。
消えた影を見届けた後、千景は蒼真の方へ目を向ける。
「影姫様の判断通りでした。」
蒼真は無言のまま天音を見た。
その瞳は冷静さを保っている。
だが、奥底にはわずかな波紋。
彼はその波紋の理由を掴めず、ほんの少し困惑しているようにも見えた。
天音が視線を返すと、蒼真はすぐに目を逸らした。
「……戻りましょう。」
声は平静。しかしわずかに硬い。
その硬さには、言葉にできない感情が滲んでいた。
千景は天音の歩調に合わせ、静かに隣を歩く。
蒼真は前を歩きながら、何度も天音の気配を確認していた。
護衛としての習慣——のはずだった。
だが胸の奥で、違和感が少しだけ強くなっていく。
(……影姫の判断に、どうして……こんなにも気がとられる……?)
自分でも理解できない。
影姫は影。
主であり、護るべき存在。
それ以上でも以下でもない。そう、ずっと割り切ってきた。
それなのに。
天音が“見抜いた”瞬間が、胸から離れない。
千景もまた、天音の横顔を一度だけ見て、胸の奥が微かに痛むのを自覚していた。
天音は気づいていない。
あの場で、敵影を見抜くという影姫本来の才を初めて示したことに。
(……わたし、影として……何か、できるの……?)
天音の胸に、不安とともに、ほんの少しだけ“何かの芽”が膨らみ始めていた。
それが希望なのか、影としての本能なのか、今はまだ誰にも分からない。
ただ——三人の間で、確かに何かが動き始めていた。
それは、後に彼らの運命を、大きく揺らす“最初の震え”だった。
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