第四章ノ二 名なき境界 ―― 再び会うことも、諦めることも許されない。

◾️千景視点:影姫と少女のあいだ〜


儀式から一晩明けた宮の回廊は、息をひそめたように静かだった。

千景は影の回廊を歩きながら、昨日の儀式の光景を思い返していた。


名を封じられた少女。

額に押された墨印。

あの瞬間――

天音は“影姫”になった。


それなのに。


(……どうして、あのとき。)


胸の奥がわずかに痛んだ理由が分からない。


影姫が名を失うのは当然だ。

掟であり、世界の理だ。


千景はそれを熟知している。

従い、守り、疑ったことなど一度もなかった。


なのに――。


天音が名前を奪われる瞬間、ほんの一瞬、胸がざわついた。


痛む、というほど強い感情ではなく、かといって無視できるほど弱くもない。


名を押しつぶされるようなあの表情。

恐れでも、拒絶でもなく。


ただ、


“理解しようとしている”


そんな顔をしていた。

影姫の儀式で、そんな顔をする者を千景は見たことがなかった。


(……余計なことを考えるな。)


自分を戒め、呼吸を整えた。


影姫に情を向けてはならない。

主として仕えるのみだ。


それが千景の生き方だ。

だが足を進めるほどに、昨日の天音の声が耳に残った。


「……はい。」


小さくて、消えてしまいそうで。

それでも、確かに頷いたその声。


影姫の声ではなく、少女の声だった。


「……失礼いたします。」


天音の室の前に立ち、千景は襖を静かに開けた。

その向こうに、影姫の装束を身にまとった天音がいた。


黒い布に隠された身体は儚く、昨日とは違う静けさをまとっている。

天音は千景の姿を見て、ふっと背筋を伸ばした。


「千景殿……ですよね。」

千景は深く頭を下げた。


「影姫様。本日より影としての務めをお伝えいたします。」


表情に揺れは出さない。

声にも出さない。


けれど――。


天音が小さく頷くたび、胸の奥で何かがかすかに軋んだ。


(この軋みは……何なのだ。)


忠誠か、責務か、迷いか。

そのどれとも違う。


ただひとつ言えるのは、昨日の儀式から、何かがほんの少しずれてしまった。

その“ずれ”を正そうとするほど、逆に深まっていくような奇妙な感覚。

千景はその理由を探ろうとして、ふっと目を伏せた。


影姫は名を持たない。

過去も、個も、想いも持たない。


それなのに――

天音という名を知ってしまった自分は、どう変わってしまうのだろうか。


千景は静かに告げた。

「影姫様。まずは宮の内部をご案内します。」

天音は袖を握り、かすかに息を整える。


少女の影が揺れた。

その揺れに、千景は触れられないと知りながら、心が一瞬だけ動いた。

ほんのわずか。掟に反しない程度に。


それでも――

千景の中の“揺らぎの始まり”は確かにそこにあった。




◾️天音視点:初任務の影


千景に案内され、影の回廊を歩き終えたところで、天音はふと立ち止まった。

胸の奥が、少しだけ重かった。


(……怖いのかな、わたし。)


影姫として生きると決まった日から、涙を流したことは一度もなかった。

名が封じられた瞬間でさえ、胸に冷たい痛みが走っただけ。


けれど今、この静かな宮の空気の中で、初めて“恐れ”に似た感情が胸を押していた。

千景が振り返る。


「影姫様。体調でも優れませんか?」


天音は首を振る。


「……大丈夫です。ただ……少し、胸が重くて。」


言ってすぐに、こんなこと言ってはいけなかった、と気づいた。


影姫は弱さを見せてはならない。

感情を持ってはならない。


そんな掟が、ゆっくりと天音に重なっていく。


千景は天音の言葉を否定しなかった。

ただ、静かに目を伏せた。


「影姫様は、影として生きる存在。恐れも、悲しみも、迷いも……本来は表に出すべきではありません。」


その言葉は冷たいようでいて、なぜか天音には優しく聞こえた。

千景の声の奥には、ほんのわずかに“寄り添おうとする揺らぎ”があった。


「でも、影姫様は……まだ昨日、生まれたばかり。戸惑いがあって当然です。」


天音の胸が少しだけ軽くなる。

(……昨日、生まれたばかり。)

その言葉は、名を奪われた痛みよりも不思議と優しかった。


そこへ、蒼真が一歩前に出た。


「影姫様。本日の任務の前に、影姫としての歩みを……少しずつ慣らしていく必要があります。」


蒼真の声はいつも通り冷静で、乱れがまるでない。

けれど天音には、昨日までとは違う響きに聞こえた。


「……慣れる、ですか?」

「はい。影姫は……“心”を使いすぎてはなりません。」


心を使いすぎてはならない。

名前が奪われたときよりも、その言葉の方が天音には痛かった。


「心が動けば、足元が揺らぎます。任務に支障をきたすこともあります。」


蒼真は静かに言葉を続けた。


「影姫は、影であって人ではありません。影として息をすることを……まずは覚えていただく必要があります。」


天音は目を伏せる。影として息をする。


それは人ではないということ。

名を呼ばれないということ。

誰にも触れられず、誰にも触れてはならないということ。


(……わたしは、今日から誰でもないの……?)


胸の奥に、薄い痛みが滲む。

だがそのとき、思いがけず優しい声が落ちた。

千景だった。


「影姫様。恐れを感じても構いません。」


蒼真がわずかに眉を動かした。

千景としてはらしくない言葉。

掟に反しない程度の、小さな揺らぎ。

千景は続ける。


「影姫は孤独な役目です。誰にも名前を呼ばれず、心を寄せる者もいない。

……だからこそ、わたしたちが側におります。」


その“一瞬だけの優しさ”に、天音の喉が熱くなった。


「……ありがとう、ございます。」


言葉は震えなかった。

ただ、胸の奥に静かに染みていくように響いた。


蒼真は二人を見ながら、その小さなやりとりを理解しようとしていた。


千景と影姫。

影姫と自分。


昨日までなかった感情の糸が、静かに絡まり始めている。

その始まりが、天音自身にもまだわからなかった。

ただ胸の奥に、誰でもないはずの自分の影が、ゆっくりと形を持ち始めている気がした。




◾️ 蒼真視点:影と少女のあいだ


影の回廊を歩く天音の後ろ姿を、蒼真は一定の距離を保ちながら見ていた。


影姫は、影として歩く。

それが当然で、変わることなどないはずだった。だが——。


(……どうしてだ。)


昨日の儀式以来、胸の奥にわずかな揺れが残っている。

その正体が何なのか、蒼真自身にも分からない。


名を封じる儀。

額に押される墨印。

影へと変わる瞬間。


それらを何度も見てきた。

感情を動かす必要など、ただの一度もなかった。

だが“天音”という名を耳にした瞬間、胸にかすかな響きが走った。


影姫は名を持たない。

名を知るべきでもない。

呼んではならない。


それなのに、その名だけが脳裏にしつこく残り続けた。

(忘れればいいだけだ。影にとって名前など必要ない。)

そう言い聞かせても、心の奥で微かなざわつきが消えない。


天音は、歩くたびに装束の裾をそっと握りしめる。影姫らしからぬ所作。


弱さではない。

迷いでもない。


ただ、人の心の痕跡のようなものが、そこに透けて見えた。

千景が天音に語りかける。


「影姫様。恐れを感じても構いません。」


その一言に、蒼真は僅かに眉を動かした。

千景らしくない。掟に忠実な男が、影姫に“恐れ”などという言葉を使うとは。


天音が小さく頷き、「……ありがとう」と応じた声は震えていない。

けれどその声には、影としてではなく“少女としてのぬくもり”があった。

その瞬間、蒼真は自分の胸がわずかに熱を帯びたことに気づいた。


不快だった。

何の意味もないはずの感覚に、理由を探そうとする自分がもっと不快だった。


(……なぜ、千景の言葉に反応する。)


千景と影姫——

そこに生まれようとする小さな距離の変化に、蒼真は違和感を覚えた。

その違和感は、嫉妬でも心配でもない。

もっと淡く、もっと形のない、霧のような“影のざわめき”。

影の者が抱いてはいけない種類のもの。


天音がふとこちらを見た。目が合う。


一瞬だけ、天音の黒い瞳に“誰でもない少女”の揺らぎが映った。


蒼真は視線を逸らす。


「……行きましょう。」


声が少しだけ硬くなった。

その硬さに、天音のまつ毛が微かに震えた。


千景は何も言わない。

だが僅かに蒼真を横目で見た。


三人の間に、まだ誰も気がついていない

“初期のズレ”が生まれている。


そのズレが、やがて三人を別の道へと引き裂くことになるなど、この時の蒼真は知る由もなかった。


ただひとつ、胸の奥のざわつきだけが消えてくれなかった。


影として生きる者にとって、

最も不都合で——

最も痛い揺らぎだけが。

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