第四章ノ一 影の歩みはじめ ―― 深い悲しみを抱き、影として歩き出す。
影姫として迎える最初の朝は、驚くほど静かだった。
鳥の声も、朝を告げる鐘の音も届かない。
影の者に、光の喧騒は必要ないからだろうか。
天音はゆっくりと身を起こした。
薄い装束の袖が肩から落ち、昨日の儀式で押された額の印がまだひんやりとしていた。
胸元に手を当てる。
名前を呼ばれることのない世界で、今日が始まる。
障子の外には人影があった。
近づくと、静かに背筋を伸ばした蒼真が立っている。
「お目覚めですか、影姫様。」
その声は変わらず淡々としていて、どこにも感情を滲ませない。
けれど——
昨日の儀式のあの瞬間を思い返すと、天音は胸が少しざわついた。
名前を封じられた痛み。
人としての何かを失った喪失感。
その全てを、この青年は黙って見ていた。
天音は息を整え、静かに頷いた。
「……はい。」
蒼真が歩みを返す。
「千景が参ります。影姫としての一日について、説明があります。」
千景が──。
緊張が胸を締める。
儀式のとき、千景は天音を“影姫”として扱いながらも、どこか痛みをひた隠しにしていた。
やがて足音が近づき、千景が姿を現した。
昨日と同じように礼をとり、静かに言葉を紡ぐ。
「影姫様。本日より、影としての務めが始まります。まずは“掟”をお伝えします。」
千景の声には乱れがない。
淡々としているのに、どこか天音を包もうとする気配があった。
「影姫は、国の影として王を支えます。表に立つことはありません。名を持たず、感情を生かさず、ただ使命のために生きる者です。」
その言葉は静かだったが、天音の胸には冷たく落ちた。
感情を生かさず。
名を持たず。
千景は続ける。
「本日、影姫様に与えられる任務はありません。代わりに、宮の中をご覧いただきます。影姫が歩くべき場所、通ってはならぬ場所……。すべてを覚えていただきます。」
天音は静かに頷き、袖を握りしめた。
「……わかりました。」
その小さな返事に、蒼真がわずかに目を向けた。
ほんの一瞬だけ、揺れたように見えた。
だがすぐに蒼真は表情を戻した。
「では、参りましょう。」
影姫としての朝が始まる。
影として歩く最初の一歩。天音は深呼吸し、
二人の後ろに続いた。
廊下の影が、静かに長く伸びていた。
◾️宮の内部と影姫の道
天音は、千景と蒼真に導かれ、宮の回廊を歩き始めた。
外は朝の光に満ちているはずなのに、この宮の中には影の方が多く見えた。
長い廊下。
高い天井。
静まり返った空気。
歩くたび、影姫の装束の白が淡く揺れ、天音は自分の歩幅さえ慎重になった。
千景が一歩前に出る。
「こちらが“影の回廊”です。影姫様が通るべき道は、すべてここに繋がっています。」
影の回廊――。
その言葉が、天音の胸に静かに落ちる。
ここは王宮の裏側。
表の者には知られない道。
影たちだけが行き交う、影のための回廊。
天音は無意識のうちに周囲を見渡した。
壁には何も飾られていない。
音が吸い込まれるような静寂。
足音だけが淡く響く。
初めて見る世界。
でも、どこか懐かしさもあった。
(……どうしてだろう。)
こんなにも静かな場所なのに、自分だけが“生きている音”を立てているようで胸がざわつく。
千景が歩みを止め、振り返る。
「影姫様。影の者は、光の側には立てません。」
天音は小さく息を呑む。
千景は淡々と続ける。
「影姫は、王の影。表の庭、日向の広間、人が多く集う場……それらは影の者にとって“踏み入ってはならぬ領域”です。」
踏み入ってはならない場所。
影として生きるとは、光から遠ざかること。
昨日、名前を奪われたばかりの胸に、その言葉は痛く沈み込む。
「……わたし……影として……」
天音の呟きは、回廊の静けさにすぐ飲み込まれた。
千景はゆっくり頷く。
「影として生きることは、時に孤独です。しかし……必要な存在でもあります。」
その言葉の“必要”という部分だけ、わずかに温かさがあった。
天音は気づかぬほどの小さな温度差。
けれどその温度差は確かにあった。
蒼真は後ろに控え、無言のまま天音の歩幅に合わせて歩く。
「……影姫様。」
蒼真が低い声で呼びかけた。
天音が振り返ると、その視線は冷静で、距離があった。
だがその奥に——
昨日とは違う、分からない揺らぎがほんの一瞬浮かぶ。
「足元にお気をつけください。影の回廊は薄暗いところもあります。」
それだけ。声は淡々としていた。
でも、天音は思った。
(……どうしてだろう。蒼真の声が、冷たいようで、どこか……少しだけ優しい。)
自分でも説明できない感覚だった。
そのとき、千景が再び口を開く。
「影姫様。ここが“禁足の間”への入り口です。」
回廊の奥に、重く閉ざされた扉があった。
灯火が届かず、黒い影だけがその表面に揺れている。
天音は自然と息を呑む。
「この扉の向こうに入れるのは、影姫様と……上層の影だけです。」
千景の声は淡々としていたが、その目にはわずかな緊張が宿っていた。
「影姫様の任務の多くは、この扉の向こうから始まります。」
扉の重さ。
その向こうにあるものの気配。
目に見えない何かが、天音の胸を軽く押しつけてくるようだった。
蒼真が横に立ち、扉を見たまま静かに言う。
「影の道は、重い。」
その声音は冷たいのに、まるで天音にだけ聞こえるような静かな響きがあった。
天音は言葉を返せなかった。
千景が言う。
「今日は入る必要はありません。ゆっくり覚えていけばよいのです。」
天音は小さく頷いた。
影としての歩みはじめ。
その最初の一歩は、静かで、冷たくて、けれどどこか優しい影たちの気配に包まれていた。
ただひとつ確かなのは——。
天音、蒼真、千景。
三人の間に、まだ名のない“何か”が落ちた。
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