第三章 名を封じて『呼ばれない名前』 ――ただ一度だけ、名を呼びたい夜があった。
障子の向こうの光は淡く、朝なのか夕なのかも分からない曖昧な時間だった。
蒼真は天音をじっと見つめたまま、静かな声で告げる。
「準備をしろ。──儀式がある。」
儀式。
その言葉には、どこか“逃れられない運命”のような響きがあった。
天音が唇を震わせると、蒼真はわずかに視線をそらした。
その仕草は冷たさよりも、“情を押し殺している”気配に近かった。
「……儀式とは……?」
返答したのは蒼真ではなかった。
障子の向こうから、足音がひとつ近づいてくる。
風が揺れ、帳がふわりと膨らんだ。
「影姫様を──“影として認めるための儀”です。」
現れたのは
蒼真とは違い、千景は礼を失わない丁寧な姿勢を保っている。
だがその目は、天音の存在を古くから知っているかのような深さがあった。
「儀式では、影姫様の“名”は封じられます。」
名を……封じる?
天音は思わず胸に手を当てた。
そこに温かさを確かめるように。
「わたしの……名前を?」
千景は静かに頷く。
「この国の影として生きる以上、個の名は必要ありません。
影姫様は“影姫”というひとつの存在となる。それが掟です。」
——私は、誰でいたいんだろう。
名前を口にしたい。
“天音”と呼んでほしい。
それだけなのに、それが許されない。
声にならない感情が胸に積もる。
「……さあ、参りましょう。」
千景が一歩下がり、道を示す。
「影姫様の儀式は──朝の光とともに始まります。」
天音は立ち上がった。
薄い衣が揺れ、冷たい空気が肌を撫でる。
本名を胸に抱いたまま、その本名を奪われる場所へ向かって。
その背後で、蒼真の視線だけがほんの一瞬、哀しげに揺れたことに──
天音は気づかなかった。
千景に促され、天音は小さな部屋へと通された。
そこには一式の衣が、静かに整えられていた。
深い黒を基調に、闇に溶けるような暗い花文様が織り込まれた装束。
近づかなければ気づかないほど控えめで、それでいて確かな存在感を放っている。
「これが……わたしの?」
思わず触れた指先に、布はひんやりとしていながら、意外なほど柔らかかった。
千景が淡々と告げる。
「影姫は“光に立たぬ者”。目立つことは許されませんが、闇に溶ける美は否定されない。」
袖は長く、動くたびに花の影が揺れる。
光を受ければ模様は沈み、闇の中ではかえって浮かび上がるような、不思議な意匠だった。
帯は暗紅色に近い深い色合いで、正面に静かに結ばれる。
主張はないが、逃げ場もない結び方。
「影は、光の裏に立つものです。背を向けるのではなく、光の届かぬ場所に在る。」
天音は胸の奥が、じわりと締めつけられるのを感じた。
名前だけでなく、生き方そのものをこの衣に包み込まれるようだった。
髪には、黒と深紫の髪飾りが一つ添えられる。
それは宝飾ではなく、影に沈む花を象ったものだった。
「飾りは許されます。ただし、光を集めるものは禁じられています。」
最後に額へと指が触れ、墨色の印が静かに刻まれる。
「……これで、あなたは影姫です。」
鏡に映る自分は、美しく整えられているはずなのに、どこか“名を失った誰か”だった。
「わたしは……天音なのに……」
こぼれた声は、花文様の闇に吸い込まれていく。
千景は一瞬だけ視線を揺らし、すぐに伏せた。
「名は……もう呼べません。」
その言葉は冷たい。
だが、確かに震えていた。
天音は影姫の衣の裾を、そっと握りしめる。
本当の名を胸に抱いたまま、それを封じたまま生きるための儀式へと、歩き出した。
堂の端に立つ蒼真の表情は変わらなかった。
護衛として当然の姿勢。
影姫とは「個」ではなく「役職」。
そう教えられてきた。
影姫には名はない。
影に名は不要。
それだけのはずだった。
だから——
影姫となる少女にも、名など存在しないと思っていた。
老人の声が響く。
「汝の名を。」
その瞬間、天音の喉がわずかに震えた。
小さな声が零れ落ちる。
「……あ……ま……ね……」
蒼真の目が、ほんのわずかに揺れた。
名——
この少女には、名があったのか。
胸の奥に、言葉にできない違和感が灯る。
惹かれたわけではない。
情が生まれたわけでもない。
ただ、“影として扱うはずの存在に、確かに人の名があった”その事実が、蒼真の中に静かな波紋を広げた。
老人が杯を掲げる。
「名を封じます。」
その言葉と同時に、蒼真は意識の奥にざらりとした痛みを覚えた。
天音という名を、この少女はもう二度と名乗れない。
影姫である限り、誰もその名を呼んではならない。
蒼真はまぶたを伏せる。
その名は、知った瞬間に永遠に呼べなくなる名。
視線を上げたとき、儀式を終えた天音が胸元を押さえて立っていた。
掟に従って名を失った少女。
それを見ても、蒼真の心は大きく動くことはない——はずだった。
だが。
影姫となったはずのその姿に、“影ではなく、ひとりの少女の痛み”が確かに存在していた。
蒼真は、それを見てしまった。
任務としての距離感が、ほんのわずかに乱れる。
ほんの一瞬だけ——
呼べもしない名前の重さを理解した気がした。
儀式の堂を出ると、朝の光が少しずつ地に落ち始めていた。
その光でさえ、天音にはまぶしく感じられなかった。
自分が“光の側ではない場所”に立ったからかもしれない。
千景が先を歩く。
その足取りは迷いがなく、影のように静かだった。
「こちらです、影姫様。」
用意された部屋は、簡素で、きれいすぎるほど整っていた。
木の床。
白い帳のかかった寝台。
何も置かれていない机。
綺麗なのに……寒い。
「ここが……わたしの……」
言いかけた言葉は、
胸の奥でつかえて消えていく。
“わたし”とは誰のことだろう。
天音なのか。
影姫なのか。
どちらを指すのか、自分でも分からない。
千景が振り返る。
「影姫様、本日は休息を。儀式の後は、心が揺れます。」
その言葉には優しさがあった。
でも、その優しさでさえどこか遠く感じられる。
「……ありがとう。」
かろうじて声を出したが、千景には届いたのか分からない。
彼は深く頭を下げ、部屋を静かに去っていった。
天音は部屋の中央に立ち尽くした。
影姫の衣の白が、四方の光を吸い込むように淡く揺れている。
胸元に手を当てる。
“天音”という名前が、言葉として口に出せないわけではない。
ただ——呼んでくれる人がもう、この世界にはいない。
その現実が胸に沈み、静かに痛んだ。
「……わたし……」
呟いた声は、部屋の空気に溶けていく。
私は誰?
その問いは答えを持たないまま、冷たい部屋に落ちた。
天音はそっと床に座り込んだ。
影姫としての衣が、冷たい花びらのように周りに広がる。
儀式のときに額に押された墨印が、まだひんやりと残っていた。
その冷たさが、天音の胸の奥まで静かに染みていく。
〜同時刻 ― 蒼真視点〜
廊下を歩く音は、普段の任務の時よりも重く感じた。
理由は分からない。
影姫が儀式を終えただけ。
それだけのはずだ。
(天音……)
胸の奥に浮かんだ名を、蒼真はすぐに掻き消した。
呼ぶことは許されない。
呼べば罰せられる。
影姫に個の名を与えてはならない。
(……名が、あったのか。)
影姫は影。
影に名前は不要。
そう信じて疑わなかった。
それなのに。
名を封じられる直前の少女の表情が、蒼真の記憶に静かに残っていた。
痛みとも、諦めとも違う。
何かを失う音のような……
ただ、それが何なのかは分からない。
影姫として扱うべきなのに、なぜか“あの名”が胸に沈んでいた。
(天音……)
心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥に違和感が広がった。
呼びたかったわけではない。
惹かれたわけでもない。
ただ——
「知ってしまった名」をもう誰も呼べないことが、妙に静かに胸へ落ちていく。
影姫様。
それだけが、これからの呼び名。
蒼真は無表情のまま、廊下の先を見つめた。
(……あの少女は、今日で“影”になったのか。)
その思いだけが、やけに重く胸に残った。
儀式から少し時間がたち、天音は静かな廊下を歩いていた。
影姫の衣は軽いのに、足取りは自然とゆっくりになる。
どこへ行くべきかも、何をすべきかも分からない。
ただ——胸の奥に残る冷たさが、歩みを少しずつ鈍らせていた。
そのとき、前方から千景が現れた。
「影姫様。」
千景は立ち止まり、深く頭を下げる。
その所作は丁寧で、乱れがない。
だが天音の瞳に映る千景の表情には、
ほんのわずかに、言葉にならない“揺らぎ”があった。
それは、
儀式で名を封じられた少女への哀れみか、
それとも過剰な忠誠を誓う者としての痛みなのか。
天音には分からない。
ただ、千景は影姫に対して“正しい距離”を保とうと必死に見えた。
「……大丈夫です。」
天音は小さく答えた。
千景は頷くだけで何も言わず、すれ違う瞬間に一度だけ、天音の額の墨印を見る。
その視線には、ほんの一瞬だけ“名を奪われた少女”を気遣う色が宿った。
けれど千景はすぐにそれを消した。
影姫に情を向けてはならない。
それが千景に刻まれた掟だった。
天音が歩みを進めると、
曲がり角の影に、蒼真が立っていた。
無表情。
護衛らしい静けさ。
感情の欠片も見せない。
だが天音が近づくと、蒼真は自然に半歩だけ道をあけ、自分の存在を主張しない距離で見送った。
「……なにか……?」
天音が小さく問う。
「護衛です。」
蒼真は短く答える。
声は冷たい。
けれどその冷たさの奥に、言葉にならない“ひっかかり”のようなものがあった。
蒼真自身も気づいていない。
ただ、それは儀式の時に天音の名を知ってしまったせいだ。
影姫には名がない。
影姫は影で、個ではない。
しかし天音という名は、確かにそこにあった。
それを理解してしまった蒼真は、距離を詰めることもできず、距離を置くこともできず、ただ“影姫様”という呼び名に自分を縛りつけるように口を閉じた。
天音は、彼の視線がほんのわずかに揺れたことに気づく。
しかしその“揺れ”が何なのか、今はまだ分からない。
千景は忠誠の距離を守り、蒼真は掴めない違和感を抱き、天音は二人との距離に戸惑う。
その“初期のズレ”だけが、静かに、確かに三人の間に漂い始めた。
まるで、後に訪れる悲劇の影がすでに廊下の片隅で息を潜めているように。
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