第一章 願い ―― 失われることを知らないまま、花は恋を願った。

目を開けた瞬間、そこは病室ではなかった。

白い天井も、機械の音もない。

ただ、深い闇と、息を飲むほど静かな空気が広がっていた。


——ここはどこ?


声に出したつもりなのに、誰もいない空間へ吸い込まれるだけだった。

ゆっくりと目が慣れてくると、闇の奥にひとりの存在が立っているのが見えた。


「来たね、天音あまね。」


その声には聞き覚えがある。

病室で最後に聞こえた、あの不思議な声。


「そなたの望みは……“恋をすること”。その願いは、確かに受け取ったよ。」


淡々とした言葉は優しくもあり、残酷でもあった。

天音は問い返す。


「……私は、本当にやり直せるの?」

「やり直すわけではない。——別の世界で、そなたの願いに合う“人生”を生きるだけだ。」

「人生……?」


「ただし、条件がある。」


闇の中で、その存在が一歩近づいた。

その足音は不思議なほど静かで、近づくたびに心臓の鼓動だけが大きく響いた。


「一つ。願いの内容を誰にも言ってはいけない。

二つ。願いが叶った瞬間、そなたは消える。

三つ。消える理由は、死んだあとにしか誰にも届かない。」


天音は息を呑む。

「……恋を知ったら、死ぬということ?」

「そうだ。でも、それがそなたの“望み”だろう?」

その言葉は皮肉にも思えた。

けれど、どこにも嘘はなかった。


天音はゆっくりと目を閉じた。

怖くないと言えば嘘になる。

でも——恋を知らないまま終わる人生の方が、私には、ずっと怖かった。


「……分かった。それでも、私は恋をしたい。」

静かにそう告げると、闇がひとつの扉の形を描き出した。


「なら行きなさい。その先でそなたを待つ、“運命”がある。」

扉が開く瞬間、微かな風が頬を撫でた。

その風が、まだ出会ったことのない誰かの気配のように感じられた。


天音は一歩、前へ踏み出す。

そして世界が——ひっくり返るように光へと溶けていった。

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