観察 二日目 朝
翌日の登校は全く気乗りしなかった。いや、元の登校意欲自体がゼロに近しい為、感覚的には意欲マイナスの『登校したくない』と言う状態だった。
そんな自分の異変を感じ取ったのか、父親が『何かあったか……?』と訊ねてきた。僕は問いかけを弾く様な勢いで、『何にもないよ』と言って家を出てきてしまった。
なんと言うか、子供っぽいことをしたとは思う。だが、親と子なんてそんなものではないだろうか。触れられると反発するもの。鉄の壁に触れても返す感触はひんやりとした冷気だけ。同じ様に、僕が返せるのも冷たい反応だけだ。
冷たい。かじかむ手のひらに、白い息を吐いた。白んだ空気が溶けて透明になる一瞬、手には微かな温もりが残る。その残り香に似たものだけを頼りに、12月の朝と言う寒々しい外界を進む。目的地のセイスイ中学校までは徒歩10分程度。短くも、重たい道のりだ。
アスファルトで塗装されていないその田舎道を進むとガジャリ、と不定形ながらもはっきりとした足音が響いた。霜柱を踏んだ感触。それは僕に、確かに進んでいると言う事実をより強く印象付けた。
だが、やがてその田舎道も終わる。アスファルト塗装の施された道につながり、今度はそちらへ。横断歩道を渡って少し歩き、目的地に辿り着いた。着いてしまった。
我らがセイスイ中学校、登校。
下履きに履き替え教室へ。教室の自分の席へ。
どさりと座ると、時計を見た。まだ朝のホームルームの時間まで30分はある。いつものごとく、早く来すぎた。いるのは僕だけだ。
昨日までなら、そうではなかっただろう。僕がこの時間に来ると、いつも先客がいた。艶のある黒い髪を垂らした女生徒が窓から校庭を眺めているのが常だった。
だが、それも過去のこと。その子は、神田るまは死んだのだから。
冷たい、風が吹いた。
風は窓際から廊下へ向けて吹き抜けた。束ねられたカーテンが少し揺れる。それに合わせ、もう一つ風に揺れるものがある。それは一輪の花。黄色い、菊の花だった。安そうなガラスの花瓶に、菊の花が一輪だけ入れてあった。
誰が置いたのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、すぐに担任の教師だろうと自己完結した。
菊の花が風に揺れる。それが風にそよぐ髪を思い起こさせる。僕はぼんやりと、その菊の花を見続けていた。生徒達が登校して、教室に入って、噂や憶測の声で騒がしくなっても、見続けていた。
やがて、チャイムが鳴った。朝のホームルームの時間だ。
そのチャイムとほぼ同時に、おはようと言いながら担任の教師が現れる。40代で少し感受性が高すぎる面はあれど、明るく面白く、何より生徒に真摯な女性の教師だ。生徒からも親しまれている、いわゆる良い先生。
そんな彼女が、今日は少し俯き気味に現れた。見るからに、その表情には陰りが見える。その彼女の様子に、生徒たちの間で微かなどよめきが生じた。さざ波のように細やかに、しかし揺らぎは確実に。
「……皆さん。今日のホームルームでは……残念なお話をしなくてはなりません」
教師の一声に、生徒たちは口を閉じた。その声に、平時とは全く異なる色があるからだ。
皆、察しはついていた。この後、どんな話がはじまるのか。そして、その話がどんな結末を迎えるのかも。
「——昨夜、2-3のクラスメイトが……神田るまさんが亡くなりました。尊い命が……永遠に失われてしまいました……」
その声は消え入りそうでありながらも、はっきりと耳に聞こえた。校舎から全ての音が消えたように静かだった。実際に静かなのか、それとも先生の言葉に聞き入っていたのかはわからない。ただ教室の生徒はみんな、教壇から聞こえる言葉に耳を傾けていた。感情的になり、啜り泣くような声すら聞こえる。教室全体が、悲壮の一色に染まっていた。
——……みんな、そんなに聞き入るものなのか……。
「皆さん……命は一人一人に一つずつしかない、大変な宝物です……。一度失えば二度と手には入らないものです。……将来に待っている友達、家族、恋人、夢、目標、歌にアニメにゲームに動画……バズって一躍有名人にだってなれるかもしれない……。そんな大きかったり小さかったりする幸せを……全部失ってしまうんです」
僕は教師の語る言葉を、話半分に聞いていた。彼女の物言いは立派だ。模範的な道徳的スピーチと言える。
でも、その彼女の語る命の尊さに、僕は同意出来ないでいた。いや、命の尊さにではない。神田るまの命に対する尊さに対して、だ。
「もし、みなさんが何か……不安や、迷いや、思い込んだり、つらい状況にあったりしたら……どうか大人を頼って下さい……。ご両親でも、私達教師でも、それ以外でもいい……!解決出来なくても、それだけで改善する可能性はあるんです……!ですからどうか……みなさんそれを……忘れないでください」
あのおばさんは、本気で神田るまの死が嘆かわしい悲壮の死だと思っているのだろう。……僕は内心で思わず嘲笑を浮かべた。
仮に彼女の言う通り、あの死が悲哀に満ちたものであったと言うならば……何故彼女は死に際に笑ったのだろう。それも一人でに、ではない。はっきりと、僕に対して。
考えだして、急いで思考の蓋を閉ざした。これ以上考えたくない。あのことを考えると、脳みその中心がパワッと浮き、そのまま頭痛が始まってしまう。きっとこのまま考え続けると、視界がぐるぐるとし、自分が水の中にいる様な、それでいて脳みそからゆっくりと渦になっていく様な感覚に陥ってしまう。それは昨日、寝る前の布団の中で嫌と言うほど体験した。もう、あれはごめんだ。
「…………悲しい……とは言え、皆さんには学業があります。気を切り替えて……と言うのは難しいと思います。でも、皆さんもう中学二年の冬休み前。ちゃんと勉強して受験に備えなくちゃいけないし、夏の部活動に向けた練習も必要だと思います。全部を忘れて学業に励め、などとは言いません。それでも、皆さんの大切な学生生活は、続けて欲しいと思います。その為に、私達も精一杯を尽くします。何か相談したいことがあれば、私達に言ってくださいね。……それが、ただ話したいだけでもいいですから。…………さ、ホームルームはもう終わりです」
教壇の先生はそう言って微笑を作ってみせた。それはかなり強張った表情ではあったが、強い意志の現れにも見えた。感傷に浸るのは結構、しかし現実から目を逸らしてはならないのだと。
僕にとってこの説明は、命大事にエピソードより余程胸に沁みた。冷徹にも聞こえるが、実際その通りだのだ。誰が死のうが、世界は変わらずに廻る。誰かが回し続ける。あの教師が死んでも代わりの教師が配属されて終わり。なんなら僕が死んだ場合、代わりすら必要としない。所詮ひと一人の死亡など、その程度の些事なのだから。それこそ、例えそれが真面目で端麗な学校自慢の優等生、『神田るま』であったとしても。
「——では最後に、皆さんにお知らせがあります」
僕は少しだけ眉を吊り上げた。いま何か説明されたところで、それが生徒の耳に入るだろうか。僕にはそうは思えない。無論、僕は聞き受けるだろうが、他の感情的になっているクラスメイト達には無理だ。これでは、全くの無意味な説明になるだろう。
それこそ、今の話に勝るぐらいのインパクトがなければ――。
「——今日、このクラスに転校生が加わることになりました」
―—は?
口に出ていたか或いは胸中で治めることができたかわからない。でも間違いなく、僕はその瞬間に驚愕を抱いていた。
転校生?今日、このタイミングで?しかもこのクラスに?もしかして、教師や大人とは思ったより考えなしなのか?
頭の中は疑問で一杯だった。どう考えてもおかしいじゃないか。転校生もこの状況でよろしくなんて言えないし、僕らもこの状況で今日からよろしく!なんて言えないだろう。せめて別のクラスに入れるなり、対応できなかったのか?
「——さ、入ってきて」
無茶言うなオバハン。
僕の内心を他所に、教師は廊下の方へと出て声を掛ける。そして次に彼女が戻って来た時には一人の生徒を連れていた。
「それじゃ、自己紹介をお願いしていい?」
「はいっ」
快活な声が教室に響いた。鈴を打ったような軽くて凛として美しい声だった。
声の主は進む。スカートの隙間から覗く足の肌色が、柔らかなふくらはぎの緩やかな曲線が動く。きびきびと、それでいてリズミカルに。足どりに合わせて揺れる黒髪が、蛍光灯の光で艶やかに煌めいた。それは、まるで絹のように美しい髪だった。
「初めまして!今日から2-3に転入します。えっと名前は――」
くるりと、黒髪を翻して彼女は黒板に文字を書く。丁寧で読みやすい字だ。チョークで書いたとは思えない程はっきりとした字だ。やがてカッカッという、黒板から響く音が静まる。そして再び、彼女は僕たちの方へと身体を向き直した。
「————神田るまです。よろしくお願いいたします!」
黒板にはこれ以上ないほどはっきりと、『神田るま』と書かれていた。
——息の仕方が、思いだせなくなった。身体の全てが機能停止したように、寒い。細胞の全てが熱を失って、血液の脈動が崩壊したようだった。
意識が、遠のくようにも思えた。
こちらに向かって、転校生が笑みを浮かべる。目を細め、口の端を少し吊り上げて笑みを浮かべた。それは間違いなく、昨日の放課後に僕が見た笑顔——死に際の神田るまの笑顔だった。
パチパチという音がいくつも聞こえた。遠くから聞こえたように感じた。音の発信源を探ろうするが、僕には首を動かす余裕もない。ただ眼球だけで周囲を見るので精一杯だった。
音源は、すぐそばだった。みんなが、拍手をしていた。穏やかに、しかし温かく。先生を含めたみんなが、そうしていた。
やがて先生は拍手を終え、神田るまに声を掛けた。
「神田さん、ありがとう。席はあそこが丁度空いてるから……ちょっと待ってね」
先生はそのままひょいひょいと生徒達の座る席列を進み、窓際の一席へ。菊の花が揺れる、その席へ。
そしてひょいと菊の入った花瓶を手に取り、躊躇うことなく窓から放り投げた。ガシャン、と窓の外からガラスの割れる音がした。
「さ、神田さん。あの席を使ってね」
「はい」
神田るまは平然とその座席につく。そして慣れた手つきで筆記具と教科書を取り出し始めた。
その時丁度、チャイムが鳴った。キーンコーンカーンコーンという、間の抜けたあの音が響いた。
「ちょうどいいわね。このまま一時間目の授業を始めます。全員起立、礼、着席。じゃあ先週の続きから。教科書の46ページを――」
誰も、何の澱みもなく、授業が始まる。机に教科書がないのは、僕だけだった。
それがわかっていてなお、僕は動くことが出来なかった。先生の言葉すら耳に入らず、思考は全く成立しない。考えることが出来ない。考えなきゃ、という意識すら出来ない。ただ目を見開いて、ある一点を見ることしか出来なかった。
僕はただ、艶めいた黒い髪を見ていた。窓際の席、束ねたカーテンの横で冬風に揺れるその髪を。平然と死に、平然と戻ってきた、その少女の揺れる絹の様な黒髪を。
僕にはそれが、怪物が蠢いている様にさえ思えた。
次の更新予定
セイスイ中学校にはイジメがあります。 井石 諦目 @iishiakirame
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