観察 一日目
あれから、授業など頭の片隅にも入らなかった。あの光景に目を奪われ、見張れてしまったのだ。ノートの罫線に風に戯れる絹の様な黒髪を重ね、空白の真白に美しい陶器の様な肌色を重ね、ペン先から紙へと滲むインクにアザを重ねた。
心が、あの瞬間から離れてくれない。無闇に跳ねて、騒ついている。何で?何で何で何で???彼女は何であんなアザを持っている?アレは……何かにぶつけただとか……男女の逢瀬だとか……そんなものじゃ、ない……。アレは寧ろ──暴力の、跡。
そんな妄想にも似た懸念が、僕の脳を蝕んでいた。
ふわり、とカーテンが風に揺れた。冷えた風で体が一つ震えた。ハッとした様に周りを見れば、教室にはもう誰もいなくなっていた。
「……どおりでノートが白いわけだ……」
後ろ髪を引かれる様な感覚を抱きながらも、僕は席を立つ。
と言うのも今日は放課後に図書室で勉強をすると決めていたのだ。こう言う既に決心していることに背くのは、自分自身の収まりが悪い。だから僕は迷うことなく学校の図書室へと向かった。
或いは、何か逃げ道を探していたのかもしれない。内心で渦巻く不明瞭な不安感から逃れる道を。
さて、その図書室の場所はと言えばこのセイスイ中学の3階にある。コの字型をしている校舎においてよこ線の部分、南棟と呼ばれる場所の3階だ。
この中学において南棟にある主だった部屋といえば職員室ぐらい。あとは理科の実験室や社会科資料室に技術室や美術室音楽室など、所謂特別教室関係が詰め込まれた場所だ。生徒が頻繁に出入りするのは放課後の部活動がある音楽室や美術室ぐらいなもの。あとは教室や用務員といった大人達ばかりがチラリチラリと出入りするばかり。要は、残り物を寄せ集めたみたいな場所だった。
必然、そこまでの道すがら人通りはどんどん減っていく。ニスを塗ったばかりの様な綺麗な木製の校舎に、カツンと言う自分の足音だけが響いた。
と、そこに遠くから別の音が聞こえてきた。聞こえてきたのは、窓の向こうから。チラリと伺えば、どうやら外でランニングに勤しむ運動部の掛け声らしい。野球部か、サッカー……あとは陸上部といったところだろうか。
いずれにせよ、僕には関係のない活動だ。有限である自己活動の時間を、高々友好関係維持のために浪費するなど信じられない。それも単なる浪費でなく、悩みや疲労を伴う無駄極まる浪費だ。
下らない騒音を置き去りに、僕は図書室の扉を開いた。
それから暫く、ただ勉強をしているだけだった。図書室には自分を除いてほぼ誰もおらず、図書委員らしき人が二名程司書代わりに居座り、ハラリと紙をめくる音が聞こえるだけ。あとは精々、カリカリとせせこましく動くシャーペンの微かな物音ぐらいなものだ。
勉強と言っても目的があるわけではない。目指す高校だとか将来の目標だとかそう言ったものとは程遠い。
ただ──帰りたくないだけだ。
はたと、シャーペンの動きを、止めた。原因は、鼓膜を揺らす微かな感覚。紙をめくる音ではない、微かな異音。
──……?………………これ……声…………?
声、だと思う。恐らくは、そう。どこから?多分、窓の外。誰の?どうやら、女性の声。
何やら集中を削がれた気がし、僕は窓の外へと目を向けた。辺りは既に暗くなっている。、その為、見えるのは校舎からの明かりやグラウンドに設備された照明によって照らされた範囲程度。
照明下において見えるのは、窓の外には汗かき蠢く運動部員達だけ。だが、何やらソレらは違う気がする。グラウンドのある下方から聞こえるのでなく、もっと遠い……?
そう思い、耳を澄ませてみるがイマイチはっきりとしない。隣の教室から漏れ聞こえているわけではないようだし、図書室内で誰かが音源を流している様子もない。
と、そこで気がついた。窓の向こう、聞こえてきたのは、一般棟の方からだ。一般棟はコの字型の校舎における、言わば一番最初に書く横線に位置する建物だ。こちらは学年毎に階層が分かれており、三階の三年生教室までが生徒が利用する部分だ。──そのはず、なのに……。
「────…………?…………──っ……アレって……ッ……──!?」
ガタン、椅子がぐらつく音がした。図書室の中で響くその音は、間違いなく僕が原因の音だった。立ち上がり、あまつさえ走り出した僕が座っていた椅子を弾き飛ばした音だった。
咄嗟に、僕は体を走らせていた。大変なものを見てしまった。流石に見過ごせない。アレは、許容出来ない。許容しちゃ、ダメだ。
息を切らして、前へ。急げ、急げ……とにかく、急げ……!行った所でどうなるともわからない。でも、見過ごしちゃ、ダメだ。
だから、走る。廊下のど真ん中を真っ直ぐに只管に。
目指す先は、一般棟の三階……の、さらに上。本来は侵入禁止となっている、屋上だ。
僕が図書室で見たもの、それは一般棟の屋上にいる、一組の男女。制服の二人は風を浴びながら立ち竦んでいた。既にあたりは暗い為、その姿はあまりはっきりとしない。
とは言え、それだけならばただ立入禁止区域に学生が入り込んだだけ。問題は、その内の片方が立っている場所。明らかに、屋上の際なのだ。防護用フェンスを乗り越えた先で、スカートが風に靡いていた。
ダメだ、と思う。これは、ダメだと思う。──だから、走る。間に合う様にと、祈る様に。
図書室のある特別棟から中央棟へ。中央棟だけは二階建ての為、一度階段を降りて、中央棟二階の廊下を走る。中央棟の端に達した瞬間壁に思いきり手をつき、反動を込めて直角にカーブ。
辿り着いた一般棟の階段を登って、一般棟の三階へ。あと、少し。
そして、三階への階段を登り切った。目に映ったソレに、僕は愕然と立ち止まってしまった。
──っ…………クソッ……!
苛立ちを舌打ちとして吐き出し、喧しい鼓動を無視して、再び僕は走り出す。うろ覚えのせいか、屋上への道がある階段を間違えてしまったらしい。一般棟は一つの線の様な形状になっており、その両端の部分に階段が設けられている。今回は中央棟からすぐの階段を使ったのだが、それが外れの選択肢だったのだ。
廊下を蹴って、真っ直ぐ走る。しかし、一度立ち止まったせいか、息が切れるのがわかる。その場で勢いを失くし、廊下の窓辺にもたれかかった。
「おい!!まてッ!!!」
突然、声が響く。声は僕の鼓膜を揺さぶり、意識の注意をしっかりとらえる。その声に釣られるように、声のする方を探す。前方でも後方でもない。それはもたれかかる窓の外から聞こえた。
ハッと、僕は窓の方へと目を向けた。
その、次の瞬間だった。何かが、窓の外に見えた。その衝撃に、脳の処理が追い付かなくなった。見える全てがゆるやかに、のろりと動いているようだった。
見えたそれは、ぬるりと落下していく一つの影。影からは艶やかな黒い髪が、暗い空に溶けるように広がっている。かと思いきや、だんだんと中心に集まって束のようになっていく。艶やかな黒を辿ると、女学生用の制服があった。まるで絹糸を伸ばす蚕のよう。
そして、その制服を更に辿ると、女性の顔があった。
——神田、るま――?
脳内で、言葉が形成される。それと同時に、僕はようやく状況を呑み込めた。落ちているのだ、女生徒が頭から。いやただの女生徒ではなく――神田るまが。
その神田るまの顔が、僕の目前を通りすぎた。——目が、あった――?
瞬間、脳みそが現状を拒んだかのように、視界が急速に動き出した。緩やかに過ぎていた時間が、急激に元の速度を取り戻す。
「——…………っ——」
言葉は、目前の事象に追いつかない。
彼女は瞬く間に、窓の四角い景色から消えた。更に下へ落ちていったのだ。
息が、思いだせない。
僕の呼吸の音よりも先に、ぐちゃりという音が聞こえて来た。生卵を、何十個もいっぺんに落としたような音がした。渇いているような硬さと、柔らかな水気の混じった、そんな音がした。
耳の中で、その音が何度も響く様に感じた。反響しているように、繰り返し繰り返し音が聞こえた。
僕はその残響から逃れる様に、ゆっくりと窓の際に近づく。何か、他の情報を脳に入れなければと、本能的に動いた。きっとそうしなければ、僕は両の人差し指で鼓膜をぶち抜いていただろう。
慎重に、そして少しだけ、僕は窓から首を出す。そうして下を覗く。
果たして、そこには紅く染まった地面があった。黒髪が放射状に拡がり、その更に外へと拡がるように血だまりが出来ていた。紅い下地に黒い線を放射状に何本も引いたような状態だ。
その中心には、人の頭部があった。——いや頭部だったものがあった。うつ伏せで倒れているため、顔が見えないのは幸いか。何にせよその姿には一切の魅力がなく、真っ直ぐな死だけがそこにあった。
「おい!?なんだッ!?」
聞こえて来たのは、そんな声。聞こえたのは、窓の外の更に向こう。グラウンドの方から聞こえて来た。どうやら、部活をしている者が目撃したらしかった。
一人が来て、二人が来て、次第に人だかりとなる。その最中、誰か一際大きな声がした。怒声にも似た叫びは、生徒たちに離れるように促しているようだ。混乱は凄まじく、叫び声や嘯く声がない混ぜとなっていた。あまつさえ、教師の一人がAEDを持ってきている辺りに、混乱の様相が伺える。ぴくりとも動かず倒れて、大量の血を流す彼女に、除細動器がなんの効力を果たすというのだろう。血流を再起させて血だまりを拡大でもさせたいのだろうか。それとも血で感電して筋肉が痙攣する様子でも見たいのだろうか。
そんな混乱を、何人かの生徒が撮影しているのが見えた。火事場の野次馬のような彼らは、興奮したようにスマホを掲げていた。
もう沢山だ、と僕は思った。酷く醜く、情けなく、救いのない光景だと思った。
不意に、身体がすこし仰け反った。足の力が抜け、何歩か後ずさってしまう。転ばない様にするので精一杯だった。
一歩二歩と離れれば、もう狂乱の景色は眼には映らない。そのことに気が付いて、僕はそのまま走り去ってしまった。その場から逃げるように、一目散に。
階段を駆け下りて、そのまま下駄箱へ。登下校用のスニーカーを取り出すと、空いた靴入れに上履きを乱雑に放り込む。
僕はスニーカーの踵を潰す様に足を入れると、そのまま出来るだけ早歩きでその場を去っていった。ペタペタと足音を微かに鳴らしながら、家に向かって逃げた。——そうすれば安心が、いやそこにしか安心がないのではと感じたから。
道中の記憶はほとんどない。信号を渡った時が赤信号だったか青信号だったかも覚えていない。息を切らしながら、上手く動いてくれない足を、無理矢理に突き動かした。
やがて家に辿り着くと、僕はそのまま脇目も振らずに自室のベットへと潜りこんだ。
布団にくるまり、視界を覆う。外界の音を遮断するように、毛布を耳に押し当てる。聞こえてくるのは、荒い息遣いと跳ねるような鼓動の音だけだ。僕はそのまま、心が落ち着くのを待った。
だが、心のざわめきが収まることはなかった。布団に包まれた暗闇の中に、ある光景が浮かんできたからだ。それは油じみのようにしつこく網膜に映り、決して僕の視界から離れようとはしなかった。
不意に、息苦しさを感じた。呼吸の荒さと、閉鎖的環境のせいだろう。冷静に考えればそうなのだが、この時の僕は全く違う想いを抱いた。呼吸が少し苦しいというだけの状況なのに、猛烈な死の予感を感じ取ったのだ。
慌てて、僕は布団を蹴飛ばした。荒く息を吐き、そのまま何度も大きな呼吸を繰り返した。
布団を跳ね除けた所で、部屋は明かりもなく真っ暗となっていた。再び、暗闇に先ほどの光景が浮かんできた。僕は照明をつけようと思ったが、止めた。動くのが、なんだか恐ろしく感じた。
と、その時窓から柔い光が僕に注いだ。月灯りか、或いは街灯か。とにかく暗がりに差すそのわずかな光が、僕の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
そんな風に窓から飛び込んできたのは、光だけではない。今度は音が飛び込んできた。喧しく鳴るその音は、かなり遠くから聞こえて来た。どうやら、何かのサイレンらしいかった。
僕はうす明かりの中、彼方に聞こえるサイレンに心を寄せた。そうして少しだけ冷静に、僕はあの時の光景を思い返した。
目にこびりついて離れない光景。それは、落下した神田るまが地面に落ちた瞬間でも、その後の血だまりに浮かぶ姿でもない。教師たちの慌てふためく様子でも、醜悪な生徒たちの好奇心に満ちた様子でもない。
また、その光景が浮かび上がる。逆さまになり、頭から落下していく神田るま。彼女の顔が僕の視界を通り過ぎていくその直前、彼女と一瞬だけ確かに目が合った。本当に一瞬だけ、秒針が動くその隙間を縫う様な、刹那だけ。
あの時、彼女は僕と目が合うと、色のなかった表情を少しだけ変えた。口の端を少し歪ませ、目元は細い弧を描いた。——あの顔は確かに、笑っていた。
サイレンは、鳴り止まない。あの笑みも、網膜から消えてはくれなかった。
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