第20話
結理の退院日に、村田は病院に向かう前に花屋に寄った。入院生活に要した物の運搬を手伝うように頼まれていたので、荷物が増え過ぎないように僅かばかりの花を包んでもらう。
病室に入ると、すっかり荷物をまとめた結理がベッドの端に座って足をぶらぶらさせながら村田を待ち構えていた。
「退院おめでとう。」
村田は花束を結理に差し出した。束と呼ぶのもおこがましい、数本の赤いバラだ。結理は口元をほころばせて受け取る。
「冗談だったのに、覚えていてくれたんだ。ありがとう。ただ、大分少なめな気がしますけど。」
「十万円分も買ったら、荷物になるだろ。しかも、それを運ぶのは僕なんだから。」
えへへ、と結理は笑った。衣類や洗面用具、本など、存外に荷物が多い。病み上がりの結理が一人で運ぶのは問題外だが、村田であっても一瞬怯むような量だ。
「精算は済ませてあるから、あとは出るだけだよ。」
そう言って立ち上がろうとした結理を制して、村田は結理の横に腰掛けた。不思議そうな顔をする結理の隣で、村田はじっと何かを考えるようにしてうつむいた。
「もしかしたら、怒らせることになるかもしれないけど、いいかな。」
「怒っても、荷物を運んでくれるならいいよ。」
結理の答えを聞いて、村田は顔を上げてははと笑った。
「それは心配無いよ。君が一人で帰っちゃっても、後でちゃんと持って行くから。」
それなら安心、と結理は頷く。その横顔を見つめてから、村田は再び視線を落とした。何度か両手を握ったり開いたりして、深呼吸をする。
「また、僕と一緒に暮らさないか?」
緊張して、結理と目を合わせられないまま、村田は絞るように声を出した。
「僕が勝手なことを言って別れたのに、またわがままを言っているっていうのは分かっている。だから、君が怒るのも当然なんだけど。」
「どうして?」
うつむいた村田の顔を下から覗き込むようにして、結理が訊いた。
「どうして今更そんなことを言うの?私が子どもを産めなくなったのが可愛そう、っていう同情?私に気を遣って、また無理してる?」
「それは違う。」
村田は顔を上げて、結理の視線を受けた。
「こんな言い方はおかしいかもしれないけど、君が子どもを産めないとか僕に子どもができないとか、もう、どうでもいいんだ。そんなことより、僕は今、君と一緒にいたいんだ。一緒にいた結果、子どもができたり、できなかったりするのだろうけど、そんなのは、後から付いてくるというだけのことだ。」
村田は、自分の思いを確認しながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「君がまだ子どもを産める身体なのだとしても、僕は同じことを言うはずだよ。僕は君のそばにいたい。これが、僕の願いだって、やっと気付いたから。」
村田は結理に向かって笑って見せた。深い靄の中に沈めておいた、自分の希望。靄が晴れたわけではないけれど、その存在に気付かないふりはもうしないつもりだ。
「ただ、気付くのが遅かった。そのせいで、僕はかつて君を十分に傷つけた。だから、君に断られても仕方がない。でももし、万が一、君がまだ僕を必要としてくれているなら、もう一度やり直させてほしい。」
「ばか。」
黒目がちの瞳で村田を見据えたまま、結理は唐突に口を開いた。村田は思わず口ごもって、目をしばたく。
「逆でしょ。」
「逆?」
「あなたが私を傷つけたわけじゃない。私があなたにひどい仕打ちをしたの。だから、あなたが怒るべきなのよ?」
村田は黙ったまま思い返してみたが、心当たりが無い。唐突に離婚を申し出て、結理を泣かせたのは村田だ。
首を傾げたままの村田を見て、結理は苦笑した。
「あなたが責めてくれないから、ずっと謝れないんだから。ずるいな。」
「ごめん。でも、僕は君に何をされたんだ?」
困って村田が問うと、結理は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「私はあなたを追い込んだ。あなたがいてくれるだけでいいはずだったのに、それ以上を望んで、あなたに強要した。二人だけの生活も楽しいねって言ってはみたけど、どうしても諦めきれなかった。多分、それは口に出さなくてもあなたに伝わっていたんだと思う。」
「君が子どもを望むのは、別に悪いことじゃないだろう。自然なものだと思うよ。」
「そうかもね。でも、私が拘泥している横で、あなたがどんどん干物みたいに無気力になっていくのにも、私は気付いていたんだよ。だけど、私は何もしなかった。」
村田は、干物、と呟いて、首を横に振った。
「僕が消極的なのは昔からだよ。その時に始まったことじゃない。」
「いいえ、悪化していました。本当に、腐りかけの枯れ草みたいだったんだから。」
目はどんよりで、ほとんど自発的に喋らない。話しかけても曖昧に笑うだけ。何を食べたい、どこに行きたいと聞いても、何でもいいとしか答えない。本を開いても、ずっと同じページを眺めたまま。時折、何も無い一点をじっと見つめている。離縁直前には村田はそんな有様だった、と結理は言う。
「そんなだったかな。自覚してなかった。心配させて、ごめん。」
「あなたが謝ることじゃないでしょ。私がそうさせたんだから。」
結理は足をぶらぶらと揺らして、うつむいた。
「しかもね、あなたに離婚を言い出された時、私はやっぱり、と思って、それからほんの少しほっとしたのよ。最低でしょ。すぐに自分で自分が嫌になって、自分に腹が立ったよ。」
だからね、と言って結理は顔を上げた。
「あなたは私を叱ってくれないから、勝手に謝ります。」
結理は一旦言葉を切り、息を継いだ。
「ごめんなさい。こうやって謝るのも自己満足でしかないけど。それでも、ごめんなさい。」
頭を下げることもなく、一生懸命に村田を見つめたまま謝る結理に、村田は息を呑んだ。そうだ。結理はいつもこうやって真直ぐに物を言っていた。長い間、それに耳をふさいで、何も分からないふりをしていたのは自分なのかもしれない。本当は、ただ素直に聞いていれば良かっただけなのだ。
村田は表情を緩めた。
「君はネコみたいだな。」
「どういう意味?」
「思うところ、感じるところがそのまま表れる。」
結理はふふふと笑った。
「じゃあ、私、たむちゃんと仲良くなれるかな。」
そう言って、結理は弾みをつけてベッドから降りた。くるり、と軽やかに回って、村田に向き直る。
「ねえ、今日はあなたの家に泊まってもいい?私、たむちゃんに会いたいな。」
「構わないけど、狭いよ。おんぼろで寒いし。」
「ぴったりくっつけばいいじゃない。夫婦なんだから。」
当たり前のような顔をする結理に、村田はほんの一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。
「そうだな。」
村田はベッドから降りると、結理の荷物に取り掛かった。大きなリュックを背負って、ショルダーバッグはたすき掛けにする。両手には、ボストンバッグと花束を持つ。
「これは君に。」
村田は花束を結理に渡した。結理が花束を受け取ってから、もう一度その手を差し出す。
「手をつなごうよ。」
うん、と言って結理は村田の手に自分の手を重ねた。村田は手の中の柔らかなぬくもりをそっと包む。
「一緒に帰ろう。」
結理が村田を見上げた。子どものような、ためらいの無い視線で村田を見つめ、こぼれんばかりの笑顔を見せる。
村田はもう少しだけ、強く手を握った。
猫の掌 -手をつなぐ理由- 菊姫 新政 @def_Hoge
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