第3話 口臭と豚とヒロインと




 地下牢へと続く螺旋階段を一歩踏み下ろすたびに、鼻腔を突く腐臭が濃くなっていく。そこは、この世の地獄を凝縮したような空間だった。


 鉄錆のような血の匂いと、長年換気されていない澱んだ空気、そして汚物とカビが混ざり合った吐き気を催す悪臭が充満している。


 鉄格子の奥には、商品あるいは労働力として管理されている奴隷たちが、互いに身を寄せ合うようにしてこちらを睨みつけていた。彼らが纏うのは、裸同然の見窄らしい布切れ一枚。首と手首には逃亡防止の枷が嵌められ、痩せこけた皮膚には無数の鞭の跡が刻まれている。ここが劣悪な環境であるなどという言葉では生温い。ここは、レルウ家の罪業そのものだった。


 俺は胃の腑から込み上げてくる酸っぱいものを必死に嚥下し、鼻が曲がりそうなのを堪えてブタゴラスの肥満体についていく。


「しかし、アルフォンス様に逆らう餓鬼がいるとは信じられませんなあ!あれでしょう?アルフォンス様が魔術の試射をしていたときに、的にされた分際で、避けた上に反撃してきたのでしょう?がはは!傑作ですねえ、これは!」


 ブタゴラスはわざとらしく声を張り上げ、その醜悪な笑い声を地下牢に響かせた。周囲の奴隷たちに、「逆らえばどうなるか」という恐怖を植え付けるためのパフォーマンスだ。


 ああ、手慣れている。吐き気がするほどに。


「あ、ああ。まさか、この俺に逆らうとは思ってもいなかったのでな。姑息な不意打ちをされて気を失ってしまった」

「それはそれは大変な目に遭われましたな。まったく、薄汚い平民どものやりそうなことです。ですが、我々は貴族として彼らに慈悲を与えてやらねばなりません。『痛み』という名の教育を与えることで、彼らの価値を高めてやるのです。ああ、餓鬼どもは幸せですね!アルフォンス様自らの手で裁かれるなんて!」

「あ、ああ……」


 相槌を打ちながら、俺は顔をしかめる。


(てか、息くせえなこいつ。ちゃんと歯磨いてんのか?)


 ブタゴラスが口を開くたびに、ドブ川のような口臭が漂ってくる。おえっ、また吐き気が。こいつの口から漏れ出る言葉もゴミなら、吐く息もゴミだ。


 そんなゴミカスみたいな会話に耐えつつ、俺は目的の場所へと辿り着いた。


 地下牢の最奥。湿気が酷く、最も環境の悪い牢屋の中で、三人組の子供が身を寄せ合い、震えながらも鋭い視線でこちらを睨んでいた。


 そして、俺はその中の一人を見て、心臓が跳ね上がるのを自覚した。


「────?!おい、ちょっと待て、一番右側にいるやつって」

「おっ、アルフォンス様もお気づきですね?そうです!なんと、このメスは世にも珍しい獣人!アルフォンス様も運がいい!売れば結構な金になりますよお!」


 下卑た笑みを顔面の脂肪に埋もれさせながら、ブタゴラスが唾を飛ばして捲し立てる。だから、唾を飛ばすな。臭えんだよ。


 俺は内心で罵詈雑言を並べ立てながらも、ブタゴラスの言葉ではなく、目の前の現実に戦慄していた。亜麻色の髪から飛び出した、特徴的な獣の耳。怯えているが、芯の強さを感じさせる瞳。間違いない。


(この獣人、ヒロインの一人『ミル』じゃねえか?!)


 そう、彼女は『フォボスの末裔』に登場するメインヒロインの一人、獣人族のミルだった。オーマイゴッド!どうしてこんなにも早く、物語の重要人物との邂逅を果たしてしまうのか。 俺の心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。


 俺が呆然としている間も、ブタゴラスの口は止まらない。


「──でですよお!獣人のメスはあそこの締まりが良くてですなあ!私も何度か試しましたが、あれこそ天にも昇るという気持ちですよお!」


 横を見れば、未だに生理的嫌悪感を催す言葉を、口早に捲し立てる肉塊がいる。

 卑猥な妄想と、腐った口臭のダブルパンチ。 限界だった。俺の理性と嗅覚の許容量が、決壊した。


「……息が臭い、口を閉じろブタ」

「────ひえっ?!!」


 あっ、やべ。つい本音が口をついて出てしまった。あまりのストレートな暴言に、ブタゴラスは悲鳴のような声を上げて硬直する。しまった、悪役演技の範疇を超えて、ただの悪口になってしまったか?


 俺が凍りついていると、ブタゴラスは瞬時にそのへつらいスキルを発動させた。


「え、いや、ははは!そ、そうですよね!だそうですよ、ガキども!確かにこの牢獄の臭さ、アルフォンス様が嫌悪感を露わにするのも当然です!お前ら、自分の悪臭でアルフォンス様を不快にさせた罪、万死に値するぞ!」


(……なんだ、勝手に解釈してくれたのか)


 どうやら俺の暴言を、「この場の汚さに対する不快感」として受け取ってくれたらしい。弁明せずに済んで助かったが、もうはっきり言ってこいつの口臭には一秒たりとも耐えられない。あのアグリーは、この異臭に気づいていないのか?やはりあの親父も、頭のネジだけでなく嗅覚の神経も数本焼き切れているに違いない。


 俺は気を取り直し、呼吸を浅くしてブタゴラスから距離を取ると、鉄格子の前に歩み寄った。三人の子供たちが、ビクリと体を震わせる。俺はミルを含む三人を冷然と見下ろし、低い声で告げた。


「お前ら、俺に逆らった罪……その身をもって償ってもらうぞ?」


 その瞬間、三人の顔から血の気が引くのが分かった。 絶望と恐怖に染まるその表情を見て、俺は皮肉にも確信した。


 今の俺、今日一番「悪役」の顔ができていたな、と。

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悪役フィランソロピィ 〜大物奴隷商人の息子に転生した俺、原作を無視して好き勝手した結果、ヤンデレ最凶集団に襲われる〜 @kasabaru86

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