第2話 親の愛は物理的な牢獄と共に
部屋を出ると、張り詰めていた緊張の糸が切れたせいか、ぐう、と腹の虫が間抜けな音を立てて鳴いた。
なるほど、悪徳貴族のドラ息子に転生しようとも、空腹という生理現象は平等に訪れるらしい。「腹が減っては戦はできぬ」とはよく言ったもので、まずは何よりも先に燃料補給、つまり朝食が必要だ。
しかし、問題が一つある。この屋敷は無駄に広すぎるのだ。どこをどう歩けば食堂に辿り着くのか、転生初日の俺には見当もつかない。
途方に暮れかけたその時、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
「あ、アルフォンス様!お待ちください!」
振り返れば、アサギが小走りで追いかけてくるところだった。どうやら、俺の案内役を務めてくれるらしい。 ……この感覚、妙に新鮮だ。 前世、ブラック企業の社畜として酷使されていた俺にとって、「誰かに頼る」「誰かを使う」という行為は未知の領域に等しい。これまでの人生、すべて自分一人の力(とサービス残業)で解決してきたのだから。
人が自分の身の回りのあらゆる世話を焼いてくれる感覚、慣れるには少々時間がかかりそうだった。
それに、食事に関してもそうだ。前世の俺の食生活といえば、時間がない朝はコンビニのパンを齧り、夜は疲れ果てて冷凍食品を温めるか、半額シールの貼られた弁当を胃に流し込むのが常だった。貴族の朝食という響きだけで、俺の心は密かに弾む。
アサギの背中を追いかけながら、期待に胸を膨らませていた、その時だ。ふと視線を感じて顔を上げると、アサギが不思議そうにこちらを振り返り、凝視していることに気づいた。
(あっ、いかん。つい頬が緩んでしまっていたか?!)
俺は瞬時に表情筋を総動員し、悪役モードへと切り替える。泣く子も裸足で逃げ出し、大人ですら道を譲るレベルの、オラついた表情を作る。眉間に皺を寄せ、口角を歪め、目つきを鋭く。
アサギはまだこちらを見ているが、まさか中身が入れ替わり、さらに人格まで変わってしまったとは夢にも思うまい。しかし、油断は禁物だ。俺はさらに表情を引き締め、足音を荒くして歩を進めた。
♢ ♢ ♢
無駄に長い廊下を抜け、ようやく到着した食堂には、前世の記憶にある見知った顔が待ち構えていた。
一人は、服を着た豚と形容するのが最も適切な男。醜く歪んだ顔面に、不潔な脂ぎった肌。頭部は寂しく、申し訳程度に残った髪が哀愁を誘う。
こいつの名はブタゴラス。
豚に対して失礼極まりないほどに、その名が体を表している。唯一の違いは、豚の腹につまっているのが美味しい筋肉であるのに対し、こいつの腹につまっているのは薄汚い欲望と贅肉だけだという点だ。
端的に言えば、レルウ家に寄生する金魚の糞であり、腰巾着だ。奴隷に対する扱いは劣悪を極め、俺の中ではすでに「人間」のカテゴリから除外されている。こいつが視界に入っただけで、演技で作っていた渋面が、本気の嫌悪感でさらに強張った。
そして、その媚びへつらうブタゴラスの横で、ニタニタと不気味な笑みを浮かべている男が一人。こちらはブタゴラスとは対照的に、肥満とは無縁の引き締まった体躯をしている。整ってはいるが、どこか常人離れした冷たさを感じさせる老け顔。
頭のネジが数本抜け落ちているとしか思えない思考回路を持つ悪魔。
男の名は、アグリー=オソワ=レルウ。
そう、アルフォンス=オソワ=レルウ──つまりは俺の、生物学上の父親にあたる男だ。
彼はこのレルウ家の悪名を世界に轟かせた張本人であり、おそらく世界で最も悪辣な商人である。ちなみに、アルフォンスの母親は原作には登場しない。
しかし、この体に転生して、俺はアルフォンスの幼少期の記憶を覗き見てしまった。 アルフォンスは魔術の才能だけでなく、記憶力にも秀でていたようで、過去の情景を鮮明に思い出すことができたのだ。だが、その記憶は決して美しいものではなかった。
目に浮かぶのは、泣き叫ぶ女性と、その女性に躊躇なく暴力を振るう男の姿。男はもちろん、アグリーだ。記憶から推測するに、アグリーは優秀な後継者を欲していた。そこで、商品である奴隷の中から選りすぐりの美女を選び、孕ませたのだ。
そうして生まれたのが、俺、アルフォンスだった。
記憶の中の女性の髪が、今の俺と同じ濡羽色であることからも、それが事実であることは疑いようがない。一方で、アグリーは冷徹さを象徴するような白髪だ。
記憶に残る母の姿は、五歳くらいの頃を最後に途絶えている。 つまり、父は母を売り飛ばしたのだ。 用が済んだ道具として。後継者を産むだけの母体として扱い、そして捨てた。
今ここで俺がどれほど憤っても、現実は何も変わらない。母の行方は知れず、生死すら定かではない。だが、その鮮烈な記憶は、アルフォンスという男が、俺の想像以上に深く暗い闇を抱えていたことを教えてくれた。
……まあ、だからといって、ゲーム内での数々の外道な行いが許されるわけではないが。
俺は食堂に入ると、アサギに「下がれ」と目配せし(心の中で「ありがとう」と叫びつつ)、アグリーの前へと進み出た。アサギは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに使用人の仮面を被り直し、食堂の端で静かに控える。
アグリーも俺に気づき、ブタゴラスとの下卑た会話を中断してこちらを向いた。
「おお!来たか、アルフォンス!お前が怪我を負ったと聞いて心配したぞ!」
「…………ペコリ」
ブタゴラスも俺の存在に気づき、揉み手でもしそうな勢いで一礼してくる。
────うえっ、その脂ぎった面をこっちに向けるな。食欲が失せる。そんな本音を微塵も悟らせず、俺はアグリーに向けて満面の笑みを浮かべた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません、父上。この通り、私の体はもう元気ぴんぴんです!」
もちろん、全て演技だ。アグリーとて、心の底では俺のことなど心配していないだろう。俺のことなど、ただの「後継者」というラベルが貼られた所有物、あるいは勢力を拡大するための便利な駒としか見ていない。この会話に、親子という温かな概念は一片たりとも存在しなかった。
「そうかそうか!それはよかった!それが聞けただけで安心だ。それでは、冷めないうちに朝食を食べるがいい」
「はい、父上。ありがとうございます」
「うむ」
俺は席につき、朝食と対峙する。
さすがは貴族、朝からテーブルの上は饗宴だ。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、厚切りのベーコン、とろとろのスクランブルエッグ、ハーブの効いたソーセージ、甘辛く煮込まれたベイクドビーンズ、ジューシーな焼きトマト、ソテーされたマッシュルーム、そして色とりどりの果物。前世の俺からすれば、これ一食で一週間分の食費が飛びそうな豪華さだ。この世界の一般市民が見たら、卒倒するレベルだろう。
俺は感謝を込めて、一口ずつ味わうことにした。
もぐもぐ、もぐもぐ。 ……うまっ。このスクランブルエッグ、バターの風味が濃厚で絶品だ。おっ、このトーストも外はカリカリ、中はふわふわ。小麦の香りが鼻腔をくすぐる。デザートまで完備されており、朝食としては完璧すぎる布陣だった。
俺が夢中で食事を楽しむ姿を、ブタゴラスとアグリーはどこか愉快そうに眺めていた。
「いやはや!アグリー様のご子息様は実にいい食いっぷりですなあ!これは将来、間違いなく大物になりますぞ!(意訳:ぶひっ!これまた媚び媚びチャーンス!!)」
「ああ、いっぱい食べて大きくなってほしいものだな(意訳:うむ、早く成長して、俺の手足となって働く優秀な駒になれ!)」
外野の豚と悪魔が何やら戯言をほざいているが、俺は一切気にせず、綺麗に完食した。ごちそうさまでした、と心の中で手を合わせ、ナプキンで口元を拭ってアグリーを見る。
すると、アグリーは待っていたとばかりに口を開いた。
「そういえば、アルフォンスよ。お前が負った怪我についてだがな、お前に怪我を負わせたスラムの餓鬼どもは、すでに牢に入れておるぞ」
「…………は?」
「ブタゴラスが手引きしてくれてな。山賊を雇って攫わせた。これでお前も、何の憂いもなく過ごせるだろうよ」
「────え」
「ん?どうかしたか?」
いきなり何を言い出すかと思えば、朝食の余韻を吹き飛ばす超ド級のブラック発言だった。え?前世もブラック企業だったじゃないかって?レベルが違うわ!こっちは法治国家の概念すらねじ曲げるリアル犯罪だぞ!胃の中の極上朝食が、一瞬にして鉛のように重く感じる。
「い、いえ。ありがとうございます、父上」
「うむ、父として当然のことよ」
「…………」
反応に困る。いや、困るどころの話ではない。 この場合、どう返すのが正解なんだ?
とりあえず反射的に感謝を口にしてしまったが、この目の前の悪魔にとっての「常識」が、倫理の壁を軽々と越えすぎていて処理しきれない。
沈黙が落ちる。無言で見つめ合う二人。 死ぬほど怖い。心臓の鼓動が早鐘を打つ。横目で見れば、ブタゴラスまで緊張で固まっているじゃないか。
「そ、それでは、父上。私はそろそろお暇します」
「ん?いいのか?奴らに罰を与えないのか?今までそうしてきただろう?」
「────っ」
「なに、遠慮しなくていい。お前は将来、このレルウ家を担う男だ。傲慢不遜に、弱者を甚振ればいいんだ。忌憚など、お前には必要ないぞ」
言葉だけを聞けば、息子の成長を促す父親のように聞こえなくもない。だが、その内容は「進んで弱者を虐待しろ」という教唆だ。悪魔の囁き以外の何物でもない。
ここで渋れば、「おや?今日のアルフォンスは様子がおかしいな?」と疑念を持たれるのは確実だ。
俺は覚悟を決め、短く頷いた。
「で、では……罰を与えることにします」
「おお、それでこそ我が息子だ!よし、ではブタゴラス、アルフォンスを地下牢へ案内してやれ。私は職務で忙しいのでな。ではアルフォンス、また後でな」
「はい、父上」
どうにかこうにか、この場を切り抜けることには成功した。深い溜息が漏れそうになるのを必死に堪える。ブタゴラスに先導され、俺は地下牢へと足を向けることになった。
食堂を出る際、背中に鋭い視線を感じた。
振り返らずともわかる。アサギだ。 彼女からの、軽蔑と失望が入り混じったような冷ややかな視線が突き刺さる。
そりゃあそうだ。目の前で堂々と、「罪もない子供たちを攫って監禁し、これから拷問に行きます」なんて会話を聞かされれば、誰だって軽蔑する。
(だけどごめん、アサギ。あれ、全部演技だから!心の中では俺も恐怖で泣きそうだから!許してくれ……!)
心の中で必死に言い訳を叫びながら、俺は重い足取りで、光の届かない地下牢への階段を下りていった。
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