第2話:孤独の果て、きびだんごの決意

一人の男が待機席に座っていた。


訓練所内部のコンクリートの冷気が、彼の全身を包んでいる。


けたたましい電子音が響き渡り、男はわずかに眉をひそめた。


この訓練所には電話などまずかかってこない。


男が受話器を取ると、その声は短く冷たいものだった。


「もしもし」


受話器の向こうから、緊張した若い男の声が聞こえた。


「すみません、私は桃ノ木署巡査部長の桃谷と申します。」


「犬飼権三さんはいらっしゃいますか?」


男は自分の本名を警察官から聞かされたことに、警戒の色を濃くした。


「俺が犬飼だが、警察が何の用だ?」


桃谷は一瞬言葉に詰まり、改めて所属とフルネームを告げた。


「私は桃ノ木署巡査部長の桃谷太郎と申します。」


「今、町を鬼が荒らしているのはご存知ですか?」


犬飼の目が、一瞬、鋭く光った。


その一言が、彼の心の奥底に封印されていた過去の記憶を蘇らせた。


「鬼…」


桃谷は犬飼が小さく鬼と言った言葉を聞き逃さなかった。


「あなたは2年前、刑事を辞める前に鬼を目撃したとの証言をしていたと聞いています。」


「あなたの追跡能力の噂は聞いていました。」


「しかし、突然刑事を辞めて訓練所の教官になられたと聞いています。」


犬飼は黙り込んだままだったが、桃谷はここで本題を切り出すことにした。


「ここ数日、桃ノ木町で横暴を働いている鬼の悪行を止めて、町の平和を取り戻したいと思っています!」


「そのために犬飼さん、あなたの力を貸していただけませんか?」


若い巡査部長の熱意が、受話器越しにも伝わってくる。


しかし、その熱意は、犬飼にとってただのノイズでしかなかった。


犬飼は深く息を吐き出すと、低い声で、有無を言わせぬ拒否の言葉を投げつけた。


「断る…」


桃谷は2年前に鬼の証言をしていた犬飼なら喜んで協力してくれるだろうと考えていた。


しかし、犬飼からの返事を聞いて桃谷は言葉を失った。


さらに受話器の向こうからは冷たい言葉が聞こえてきた。


「俺は2年前に刑事を辞めた。」


「鬼が何だろうと知ったことではない。」


「それに、俺が鬼の目撃証言をしていたというのは単なる噂だ。」


「お前に協力するつもりはない。」


過去を思い出した犬飼の受話器を持つ手が震えていた。


「あと一つ忠告する。」


「悪いことは言わない、鬼退治など馬鹿げたことを考えるな。」


犬飼はそう言い放つと、相手の返事を待たずに受話器を置いた。


「二度と同じ過ちは繰り返してはならないのだよ。小僧。」


犬飼は再び椅子に座り込んだ。


しかし、彼は先程電話をかけてきた青年のことが気になっていた。


***


桃谷の耳には電話が切れる音が突き刺さった。


彼は汗で濡れた受話器を握りしめたまま呆然としていた。


そして最後に犬飼が言った言葉が気になった。


「鬼退治など馬鹿げたことを考えるな…か。」


(やはり犬飼さんは2年前に鬼に関する情報を何か得ていたに違いない。)


(あれから2年が経ち再び鬼が出没している。)


(しかし、どうして犬飼さんは刑事を辞めたのだろうか。)


桃谷は思案してみるが、考えても仕方がないことだった。


彼は深く長い溜息をついた。


しかし、鬼に関しての情報のあてが一切なくなってしまった。 


彼は交番から外に出て空を見上げた。


夜の闇が空を覆っている。


鬼は強靭な体で富豪の家を中心に留守の家の金品を強奪している。


あれほど凶暴な鬼が普段はどこにいるかも分からない。


警察の捜査は難航し、被害は拡大する一方だった。


彼の所属する地域課には鬼のような超常的な存在に対処する術はない。


しかし、彼の正義の信念はそれを放置することを許さなかった。


そして桃谷は静かに決意を固めていた。


(僕にはもう頼れる人はいない。)


(自分一人の力でやるしかない。)


(必ず鬼の居場所をつきとめて、町の平和を取り戻す。)


***

犬飼権三との電話を終えた桃谷は、祖父母の家へと足を運んだ。


祖父母の住む一軒家は、古いながらも手入れが行き届いており、庭には桃の木が植えられている。


玄関を開けると、囲炉裏端に、彼の心の支えであるおじいさんとおばあさんが座っていた。


「ただいま戻りました」


おじいさんとおばあさんが二人揃って桃谷を出迎える。


「おかえり、太郎」


桃谷は制服のまま囲炉裏端に腰を下ろすと、今日の出来事を切り出した。


「あの、おじいさん、おばあさん。実は、最近町を荒らしている事件のことなんです。」


おじいさんは太郎の真剣な眼差しに気づきながらも優しい声で言った。


「荒らしのことか。最近は物騒で困るのう。」


桃谷は首を横に振った。


「あれは、ただの荒らしではないのです。あれは、鬼なんです。」


「これはたまげたな!ここ数日続いている荒らしは鬼じゃと!」


おじいさんは驚きで目を丸くした。


桃谷は大きく頷いた。


「そうなんだ。しかし、警察は鬼の存在を認めていない。」


「世の中には凶暴な動物が山から下りてきて、家を荒らしていると公表している。」


心配そうに孫の顔を見つめるおばあさんの横で、おじいさんが桃谷ですら感じていた疑問を投げかけてきた。


「なんで警察は鬼の存在を隠すのじゃ。」


この答えが分かれば、桃谷自身もこれほど孤独に苛まれることはなかった。


「分からない。でも最近は鬼の被害も増えてきて、鬼の姿を見た町民も出てきて、鬼の存在に気づき始めている。」


「そして手をこまねいている警察に不満の声もある。」


おばあさんは桃谷の手を握りしめた。


「太郎よ。お前も大変じゃな。」


おばあさんの手の温もりを感じながら、桃谷は自分の決意を告げた。


「ありがとう。それで僕は決意した。鬼は必ず僕が捕らえてみせると。」


しばらくの間、沈黙が流れた。囲炉裏の火がパチパチと音を立てるだけだった。


おじいさんとおばあさんは桃谷を真っ直ぐに見つめた。


その目は、迷いのない正義の信念で燃えていた。


幼い頃の約束を果たそうとする桃谷を見ておじいさんは深く感動した。


「わかった。太郎よ、立派になったの。」 


「どんな時でも正義の信念を忘れるでないぞ。」


太郎は胸のポケットにしまっていた、おばあさんが手作りしてくれたきびだんごの御守りを強く握りしめた。


それは、彼の幼い頃からの正義の象徴だった。


「はい。どうやって鬼退治をするのか具体的にはまだ何も決まってないません。」


「2年前に鬼の目撃証言をしていた元刑事がこの桃ノ木町の山奥に住んでいるんです。」


「でも、協力をすることを断られてしまいました。」


「大丈夫。必ずお前の正義の信念が伝わるよ。そうだ、これを持ってお行き。」


おばあさんは立ち上がると、古い木箱から、御守りを取り出した。


桃谷の持っているきびだんごの御守りと同じものだ。


おばあさんはそれを丁寧に包んだ状態で三つ取り出し、桃谷に渡した。


「これは、お前と同じ正義の信念を持つものに渡すのだ。」


「必ずお前の味方になってくれる者がいる。」


「くれぐれも無茶だけはしないでおくれよ。」


桃谷は、温かいお守りを胸に抱きしめた。


「ありがとう。おじいさん、おばあさん。」


「僕はおじいさんとおばあさんが教えてくれた正義の信念を貫き通すよ。」


桃谷はおじいさんとおばあさんから勇気をもらい、桃ノ木町の山奥にある犬飼の訓練所へと向かうことを決意した。

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