第57話 明日の境界線


 帰りの車内は、静かだった。


 風の音と、タイヤのロードノイズ。

 それだけが一定のリズムで流れていく。


 逃げ切った、はずだ。

 でも誰も笑わない。


 エルの左腕は、応急処置で火花が止まっている。

 それでも、ぶら下がったまま動かない。


 俺は視線を外せなくて、そっと触れた。


 冷たい。

 金属の温度じゃない。欠けた場所の温度だ。


 センスリンクの向こうで、空白が返ってくる。

 痛みじゃないのに、胸の奥が沈む。


 俺は指を離して、握り直した。


 直す。

 絶対に。


 隣で、エルが前を見たまま言った。


「……問題、ない」


 一拍。


「……です」


 その言い方が、余計にきつい。


 後ろの車から、無線が入った。


「落ち着いたら、合流して」


 クレアの声はいつも通り短い。

 揺れがない。


 その短さが、救いだった。


 山の影が、窓に流れる。

 雲が低くて、夕方みたいな色をしている。



 白瓏邸の管理区画に戻ると、照明がやけに白かった。


 研究室の機器は稼働音を立てている。

 その音が、さっきまでの森の沈黙を薄めてくれる。


 クレアが、俺たちの前で深く頭を下げた。


「悠斗様、エル様……申し訳ありませんでした」


 顔を上げたとき、瞳に狂いはない。

 ただ、奥に“赤い芯”が残っている。


 クレアは右手を開く。


 赤い圧が、指先の周りに一瞬だけ集まる。

 火でも光でもない。空気が重くなるだけ。


 すぐ消える。


「この力……今度は、あなた方を守るために使います」


 言い切って、クレアは手を下ろした。

 それ以上は見せない。


 鷹村研一が、端末から顔を上げる。


「……シードのログ、更新されてる」


 桐嶋共助が、紙ではなく画面を睨んだまま言う。


「設計図じゃないな。起動だ」


 一拍。


「“門”の起動シーケンス」


 室内の空気が、また少し重くなる。

 今度は恐怖じゃなく、確信の重さだ。


 画面の座標が、淡く点滅した。


 福島県――千住貫森。



 ガロウが、画面の点滅を見て息を吐いた。


「そこに、“何か”があるのねぇ」


 言い切りだけが落ちて、余計な飾りはない。


 俺は座標を見たまま、エルの右手を握った。

 指先が少し冷たい。握り返しは弱い。


「行こう」


 言葉が短くなる。

 短くしないと、折れそうだった。


「福島県・千住貫森。そこに……答えがあるはずだ」


 クレアが頷く。

 それだけで、準備は始まる。


 夜が明けた。


 白瓏邸の庭に朝の光が差して、影が細く伸びる。

 空は澄んでいるのに、胸の奥は晴れない。


 エルの左腕に、俺は上着をそっと掛けた。

 隠すためじゃない。冷えないように。


 エルが小さく息を吐く。


「……ありがとう……です」


 敬語が遅れて落ちる。


 車に乗り込む音が続く。

 エンジンがかかって、振動が戻る。


 そのとき、ニャースケがふと空を見上げた。


 耳が動く。

 尻尾が止まる。


「……見られてるにゃ」


 雲の切れ間は青い。

 何も見えない。


 でも、背中だけが寒い。


 車が走り出す。

 朝の光の中で、俺たちは次の座標へ向かった。





 俺は息を吐いた。

 まだ終わってない。


 でも、次へ行ける。



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