第56話 紅と白の鎮魂歌(レクイエム)
エルの左腕が、ぶら下がっている。
断線が揺れて、火花が白く散った。
二・五メートルの“紅い像”が立つ。
声はないのに、空気が鳴る。
クレアは膝をついたまま動かない。
動かないのに、“紅”だけが前へ来る。
ドン。
空気が潰れて、砂利が跳ねた。
エルが右腕一本で受ける。
踏ん張る。
押し返さない。ただ、倒れない。
もう一撃。
ドン。
右肩が沈む。
それでも、エルは前に立ったまま。
みゆが息を吸う音がした。
目を閉じる。
両手が、ゆっくり上がる。
祈るみたいに、指先が揃う。
冷える気配が、境内に滲んだ。
みゆの指先が、小さく震えた。
目を閉じたまま、両手が空を切る。
ゆっくり。けれど迷いがない。
空気が変わる。
冷たい、じゃない。
温度が“落ちる速さ”が異常だ。
息が白くならないのに、喉が痛い。
砂利の表面が、かすかに鳴った。
パキ。
乾いた音。
目に見えない薄い膜が、足元から広がる。
紅い像が、動きを止めた。
首が、みゆの方へ向く。
裂け目みたいな口が開く。
音は出ない。
それでも胸の奥が揺れる。
エルが一歩、前へ出た。
右腕一本で、みゆの前に線を引く。
ドン。
紅が踏み込む。
衝撃で、氷の膜が細かく割れて光った。
みゆは止まらない。
指揮みたいに、両手を振る。
空気の中に、白い粒が舞い始める。
光を拾って、雪じゃないのに雪みたいに見える。
その中心で。
白い“声”が、形を取りかけた。
白い粒が、増える。
舞うんじゃない。
空気そのものが砕けて、光る粉になる。
みゆの両手が、強く振られた。
指揮棒はないのに、音のない合図が走る。
白い“声”が、現れた。
輪郭は柔らかい。
でも、立った瞬間に分かる。
強い。
紅い像が、みゆへ踏み出した。
ドン。
砂利が沈む。
圧が胸を叩く。
エルが右腕だけで受ける。
受けて、耐えて、みゆの前を譲らない。
みゆは言う。
「大丈夫よ」
一拍。
「クレア。怖くないわ」
その言葉に合わせて、白い“声”が跳んだ。
速い。
重さのない速さ。
紅い像に、抱きつく。
優しい動きなのに、逃げ道が消える。
抱擁というより、固定。
紅が暴れる。
空気が鳴る。
境内の木々が揺れて、葉が擦れる音が遅れて落ちる。
白い粒が、さらに舞う。
光が散って、視界が白く滲む。
紅の輪郭が、わずかに揺らいだ。
みゆの声が、もう一度重なる。
「戻っておいで」
白が締める。
紅が、止まりかける。
その一瞬。
何かが、境目を探すみたいに、こちらへ触れてきた。
——センスリンク。
白い抱擁の中心で、紅い像が震えた。
その背に、エルの右手が触れる。
触れた瞬間——センスリンクが、勝手に開いた。
俺の視界が、別の場所へ落ちる。
外国の空。
乾いた街並み。遠くで鳴る破裂音。
小さいクレア。十歳くらい。
両親と走っている。息が、浅い。
腕の中に、犬。
温かい。小さい。
それが——逃げる。
すり抜けるように腕から抜けて、路地へ消える。
「リッキー!」
呼んだ瞬間。
空気が変わる。
視線が集まる。
見つかった。
両親の手が、クレアの肩を掴む。
押す。迷いがない。
段差の脇。道路へ。
落ちる。
肩が焼ける。肺が潰れて、声が出ない。
乾いた銃声が続く。
一発。二発。もっと。
振り返れない。
振り返ったら、終わる。
耳の奥で、黒い一文が育つ。
——私のせいだ。
——私が、殺した。
その一文が、長い時間になって胸を塞ぐ。
視界が戻る。
境内の白い粒。
紅い像。白い抱擁。
紅い像の震えが、今度は“泣き”に近い揺れになる。
「クレア!」
俺の声が、現実の空気を叩く。
みゆの声が重なる。
「クレア、あなたのせいじゃない!」
一拍。
「戻ってきて!」
白い抱擁が、さらに強く締まる。
優しいまま、逃げ道だけを消す。
紅い像が、ひび割れるみたいに薄くなる。
霧散。赤い圧が、風にほどけて消えた。
残ったのは、膝をついたクレアだった。
肩が震える。
息が詰まって、泣き声が遅れて漏れる。
クレアはそのまま、崩れ落ちた。
境内の冷たさだけが残る。
エルの折れた左腕が、静かに揺れていた。
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