第55話 紅の蹂躙


 クレアが膝をついたまま、じっとしている。


 砂利に触れた膝が動かない。

 呼吸も、見えない。


 境内の空気だけが、ゆっくり沈む。

 音が減っていく。


 俺は一歩も出せなかった。

 足裏が地面に貼りついたみたいに重い。


 クレアの瞳は開いている。

 なのに、光がない。


 次の瞬間。


 背後の“見え方”が裂けた。


 黒い輪郭が立ち上がる。

 人の形じゃない。肩が高すぎる。


 ——二・五メートルくらい。


 頭部が、歪に盛り上がる。

 顔、と呼べる場所に、裂けた線が走る。


 口みたいに。

 笑ってないのに、笑いに見える。


 空気が鳴った。


 耳じゃなく、胸の内側を叩く圧。

 音ではなく、意思だけが押し込まれてくる。


 憎しみ。

 恐怖。

 混ぜ物なしの、剥き出し。


 つかさが息を呑む。

 みゆの喉が小さく鳴る。


 ガロウの声が、裏返った。


「嘘でしょ……!」


 お姉語が消えている。


「こんな形で……出るの……!?」


 黒い巨影が、ゆっくり首を傾けた。

 視線が、俺に落ちる。


 クレアは動かない。

 動かないのに、巨影の足元で砂利が震える。


 エルが前に出た。

 音のない一歩。


「離れて」


 つかさへ、短い命令。


 それから、俺にだけ。


「悠斗くん……下がって……です」


 敬語が遅れて落ちる。

 その一拍が、やけに怖い。


 巨影が、腕を持ち上げた。


 ゆっくり。

 なのに、空気が裂ける気配がする。


 ——来る。



 巨影の腕が落ちた。


 遅いように見えて、間に合わない。

 空気が先に潰れる。


 ドン。


 地面が鳴いた。

 砂利が跳ねて、白い粒が光を弾く。


 俺の足が勝手に退く。

 退いたのに、胸の奥は動けない。


 エルが、前に滑り込んだ。


 受ける。

 左腕を前に出して、体を捻る。


 ドン。


 今度の衝撃は、歯の奥に来た。

 風の音が一瞬だけ消える。


 巨影が揺れない。

 揺れないまま、次の腕が上がる。


 クレアの体は、まだ膝をついたまま。

 動いていないのに、影だけが動く。


 ガロウの声が割れる。


「やめて! それ——クレアの——!」


 続かない。

 息が詰まって言葉が落ちる。


 エルは答えない。

 動きだけで否定する。


「武器、使うな」


 ニャースケに短く命じる。


 剣にも、銃にもさせない。

 殴り合いだけで止めるつもりだ。


 ニャースケが低く鳴く。


「……了解にゃ」


 巨影の腕が、横から来る。


 エルが半歩ずれる。

 受け流す。肩で押す。


 砂利が削れて、甲高い音が走る。


 巨影が、初めて“見た目どおりの重さ”を出した。

 腕が振り切られた空間が、遅れて歪む。


 つかさがみゆの腕を引いた。


「下がる」


 みゆは返事をしない。

 息が重いだけだ。


 俺も下がりたい。

 でも、足が言うことをきかない。


 胸が、あの“声”に押されている。


 巨影が、首を傾ける。


 視線が俺に落ちる。

 それだけで、喉が乾く。


 エルが一歩、前に出た。


 巨影と俺の間に、細い線を引くみたいに。


「悠斗くん……見るな……です」


 一拍遅れて、敬語が落ちる。

 声が少しだけ揺れた。


 巨影が笑ったように見えた。


 口の裂け目が、広がる。

 音はないのに、空気が震える。


 次の瞬間。


 巨影が、跳んだ。


 床を蹴る音はない。

 でも、砂利が“遅れて”飛ぶ。


 エルが迎えに出る。

 拳を出す。


 ぶつかる。


 ドン。


 鈍い音が二つ重なって、境内の空気が割れた。


 エルが踏み留まる。

 だが、靴底が砂利を掻く音が長く伸びる。


 押されてる。


 影の腕が、エルの左側へ伸びる。

 掴む角度。


 ニャースケが低く唸った。


「——まずいにゃ」



 つかさが、みゆの腕を強く引いた。


「離れる」


 短い。

 命令じゃないのに、命令みたいな音。


 みゆの足がもつれる。

 砂利が擦れて、乾いた音が二つ続く。


 つかさが肩を入れて支える。

 体格差が一瞬だけ見えて、すぐ消える。


 境内の空気が揺れて、視界の端が波打つ。

 目の焦点が合わない。


 ガロウが俺の袖を掴んだ。


「悠斗くん、下がって!」


 お姉語が戻らない。

 声が硬い。


 俺は足を動かそうとして、遅れる。

 身体が重いんじゃない。


 “声”に押されている。


 巨影が笑ったみたいに、口の裂け目が広がる。

 音はない。なのに、胸の中が鳴る。


 エルが踏み込んだ。


 拳で止める。

 拳で、押し返す。


 ドン。

 ドン。


 衝撃が二回、同じ場所に来る。

 地面じゃない。肺の内側に来る。


 ニャースケが低く鳴く。


「……分離、探すにゃ」


 言い終わらないうちに、巨影の腕が伸びる。


 左。


 掴む角度。


 エルの左腕へ。


 エルが身を捻る。

 でも、間に合わない。


 空気が固まったみたいに、時間が一拍遅れる。


 巨影の指が、エルの腕に触れた。


 触れた瞬間、音が変わった。


 金属が鳴く、細い悲鳴。

 骨格の奥が軋む音。


 エルの足元の砂利が、きし、と沈む。


 俺の喉が勝手に鳴った。

 嫌な予感が、形になる。


 つかさが振り向きざまに叫ぶ。


「エル!」


 みゆが息を呑む音。

 ガロウが何か言いかけて、言葉が落ちる。


 エルは声を出さない。


 ただ、左肩がわずかに下がった。


 その小さな動きが、すべてを告げた。



 掴まれた。


 エルの左腕が、巨影の指に沈む。

 沈む、じゃない。押し潰されていく。


 音がした。


 ギチ、と細い悲鳴。

 その奥で、もっと鈍い音が折れる。


 金属の骨格が、耐える音。

 耐えきれない音。


 エルの肩が跳ねない。

 叫びもしない。


 ただ、足元の砂利が、ずる、と滑った。


 巨影の腕が、わずかに捻れる。

 捻れた瞬間、空気が一度、止まる。


 ——バキッ。


 鈍い音が、境内に落ちた。

 乾いた破断音。骨でも木でもない、硬いものの割れ方。


 左腕が、だらりと落ちた。


 肘から先が生きているのに、繋がっていない。

 関節が“位置”を失ってぶら下がる。


 火花が散る。

 短い、白い光。


 熱が風に乗って、頬を撫でた。


 俺の息が止まる。

 頭が理解する前に、胸が落ちる。


 つかさが声を潰した。


「……嘘でしょ」


 みゆが、言葉にならない音を漏らす。

 ガロウが半歩出かけて、足が止まる。


 エルの視線だけが、こちらへ向いた。


 瞳は揺れていない。

 なのに、そこに“無理”が見える。


「問題……ない」


 一拍。


「……です」


 後付けの敬語が、震えもせずに落ちた。

 それが逆に、痛い。


 巨影が、もう一度腕を上げる。

 次は、どこを折る気だ。


 ニャースケが低く唸った。


「……離すにゃ!」


 エルが動こうとする。

 動くより早く、左側の重さが遅れてついてこない。


 俺の手が、宙で握り締まった。

 掴むものが何もないのに。


 火花の残像だけが、暗くなる境内に残っている。



 痛みは、来ない。


 センスリンクは生きている。

 設定どおり、痛覚は遮断されているはずだ。


 なのに。


 左腕が折れた“事実”だけが、頭の奥へ流れ込んだ。


 熱でもなく。

 冷たさでもなく。


 喪失。


 空洞が、胸の内側に開く。


 腕がへし折られた。

 音。火花。重さ。ぶら下がる角度。


 全部が一枚の映像になって、脳に貼りつく。


 呼吸が、ひゅっと鳴った。

 吸えない。吐けない。


 俺の喉から声が漏れる。


「……あ」


 それだけで終わるはずだった。


 でも、終わらない。


 胸の奥が、握り潰される。

 握り潰されたのは腕じゃない。俺の中の“繋がり”だ。


 目の前で、エルが立っている。

 立っているのに、左が欠けて見える。


 世界が、片側だけ落ちる。


「……やめろ……」


 誰に向けた言葉か分からない。

 影か。俺か。クレアか。


 次の瞬間、声が割れた。


「――あ、あぁぁぁぁぁぁッ!!」

俺の左腕が、根元から失くなったみたいに、身体の地図が崩れた。


 境内に響いて、木々に跳ね返る。

 自分の声が、遠くに聞こえる。


 火花がもう一度、散った。

 暗い空気の中で、白い光が瞬く。


 その光の中で。


 巨影が、ゆっくり首を傾ける。


 笑ってないのに、笑いに見えた。


 そして、クレアの膝はまだ地面についている。

 動かないまま、地獄だけが動いている。

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