第51話 鋼鉄の疾走
空が澄んでいる。
橋の白い骨が、陽に光って見えた。
オープンカーの風はやわらかい。
髪が持っていかれて、視界の端が少し踊る。
前でエルがハンドルを握っている。
余計な動きがない。
「ここ、来てみたかったんだよ」
俺が言うと、エルは前を見たまま小さく頷く。
「そう……ですか」
言い切ってから、敬語が遅れて落ちる。
つかさがシートに深く座り直した。
「エルの運転、上手いからさ。酔わないんだよね」
「そうなのか」
短い。
肯定でも否定でもなく、報告みたいな返事。
「ねえ、私にも敬語は? ……もう」
つかさが笑い混じりに言う。
エルは一拍だけ間を置く。
「不要」
それだけで終わる。
橋の継ぎ目を踏むたび、車体が規則正しく揺れる。
リズムみたいで、眠気が来そうで怖い。
俺は前を見た。
遠くの路面が、細い線になって伸びている。
エルが俺にだけ、短く言った。
「速度、安定」
一拍。
「……大丈夫、です」
風の音に紛れても、その言葉だけは聞こえた。
風の音に、別の音が混ざった。
後ろから。
細い、甲高い唸り。近づいてくる速度が、風と違う。
つかさがミラーを覗き込む。
笑いが消えるのが早い。
「……来てる」
俺も振り向きたくなるのを堪えて、ミラーを見る。
遠い点が、点じゃなくなる。
車。二台。三台。
妙に黒い。
光を跳ね返さない塊みたいに、橋の上を滑ってくる。
「ナンバー……ない?」
俺が呟くと、つかさが舌の奥で短く鳴らした。
「これ……普通じゃない」
膝の上の端末が、一瞬だけ暗くなる。
すぐ戻る。でも、表示の端が薄く欠けた。
ノイズ。
音じゃなくて、情報のほうに入ってくる嫌なやつ。
ニャースケの尻尾が止まる。
耳が、後ろへ向いた。
エルの指先が、ハンドルの上でわずかに位置を変える。
車線は乱れない。
「後続、距離……詰まる」
一拍。
「……確認、します」
敬語が遅れて落ちる。
つかさが端末を叩く。
画面が反応しない。反応したと思ったら、数字が抜け落ちる。
「削られてる」
言い切ったあと、つかさが鼻で笑う。
「電波っていうより……細くされてく感じ」
ミラーの黒が、もう形になっている。
車間が、短すぎる。
その瞬間、後ろの黒いアーマードカーから、短い声が割り込んだ。
無線。音が少し潰れている。
「……来たなぁ」
ガロウの声。
軽いのに、芯が冷たい。
「掃除屋の先遣。橋の上、好きなのよ。逃げ場がないから」
クレアの返事は短い。
「速度、落とさない」
言葉が終わる前に、風が一段強くなる。
後ろの唸りが、すぐ背中まで来た。
黒い車が、斜めに寄ってくる。
橋の継ぎ目の振動が、急に大きく感じた。
つかさがシートベルトを引き直す。
金具の音が、やけに大きい。
「……当ててくるつもりだ」
エルは前を見たまま、短く言う。
「来る」
黒い車が、横に並ぶ。
影が、俺たちの車体に落ちた。
窓のない塊が、顔の横を滑る。
つかさが息を吸う音が聞こえた。
風に消えないくらい近い。
「近っ……」
言い切る前に、ぶつけてきた。
ガン。
金属が噛む音。
車体が横へ押されて、景色がずれる。
ガードレールが、視界の端で跳ねた。
低い。近い。
エルの手が、切り返す。
ハンドルが小さく回って、戻る。戻るのが速い。
俺の腹が浮く。
胃が遅れて付いてくる。
「っ……」
つかさが歯を噛む。
端末を落とさないように膝で挟んでいる。
黒い車は離れない。
もう一度、角度を変えて寄せてくる。
今度は擦る。
ギリ、と長い音が伸びる。
焦げた匂いが混ざった。
ゴムか、塗装か。どっちでも嫌な匂い。
橋の継ぎ目を踏む。
ドン。
揺れた瞬間に押されると、体が持っていかれる。
路面の線が、斜めに流れた。
「これ、回避しづらい」
つかさが短く言う。
冗談の成分はない。
エルは前を見たまま、短く返す。
「橋」
一言で済ませた。
黒い車が、さらに内へ寄る。
押し出す角度。落とす角度。
俺は、ミラーに映る二台目を見た。
次の塊が、距離を詰めてくる。
無線が割り込む。音が潰れている。
「クレア。囲まれるわよぉ」
ガロウの声。
返事は短い。
「了解」
それだけで、空気が変わる。
次の衝撃が来る前に、エルの肩がわずかに沈む。
踏み込む前の癖みたいに。
黒い車が、最後の一押しを作ってくる。
俺の視界の端で、ガードレールが迫った。
黒い車が、最後の角度を作ってきた。
押す。
落とす。
ガードレールが迫る。
白い線が、視界の端で跳ねる。
エルの手が切り返す。
戻す。戻す。戻しきれない。
車体が、半車線ぶんずれる。
金属が鳴いた。
ガードレールが、乾いた音で震えた。
「代わって」
つかさの声が短い。
エルは返事をしない。
指が離れる。つかさの手が入る。
シートの中で体勢が入れ替わる。
風が一瞬だけ、頭の中を空っぽにした。
「真っ直ぐ保つ」
エルが言う。
一拍。
「……頼む、です」
つかさが鼻で笑う。
「遅い」
ハンドルが、微かにぶれる。
ぶれたのは手じゃない。路面だ。
黒い車が、もう一台。
後ろから影が重なる。
無線が割れた。音が潰れている。
「一台、もらうわよぉ」
ガロウの声。
次の瞬間。
無線が、砂を噛んだみたいに潰れた。
「……あら」
軽い声。
でも、そこで止まる。
横の黒い車は、変わらない。
寄せてくる角度が、さらに鋭くなるだけだった。
つかさが舌の奥で短く鳴らす。
表示の数字が、また欠ける。
ニャースケが、後ろの黒い車を一度だけ見てから言う。
「クレア。みゆとガロウの守りに専念するにゃ」
クレアの返事は即答だった。
「もちろん」
ミラーの中で、黒いアーマードカーが揺れない。
そこだけが、妙に落ち着いて見える。
俺たちの横で、黒い車がもう一度、体当たりの角度を作った。
橋の上で、車列はまだ一列だ。
それでも、空気が変わる。
その変化だけで、次が来るのが分かった。
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