第40話 視線が、逸れた瞬間

 車内は、妙に静かだった。


 エンジン音も、走りも、いつも通り。

 買い物帰りのはずなのに、空気だけが落ち着かない。


 運転席は男性スタッフ。

 助手席にエル。

 後部座席に、クレア、俺、つかさ。


 俺は、何となく前を見ていられなかった。


 クレアの服装に目がいく。

 理由は分からない。ただ、視線の置き場に困る。


 気づいたのか、クレアが一瞬だけ姿勢を正す。

 それから――なぜか、落ち着かない。


 次の瞬間だった。


「……止めて」


 エルの声。

 短くて、迷いがない。


 運転席が戸惑う。


「ここは危険です。

 少し先に、広い場所が――」


「……今」


 エルは前を見たまま言った。


 減速が早い。

 急ブレーキじゃないのに、胸がざわつく。


 クレアがすぐに切り替える。


「了解。ハザード入れてください」


 点灯音。

 車は路肩に寄り、止まった。


 理由を聞く暇はなかった。

 聞いていい雰囲気でもない。


 エルがシートベルトを外す。


「……入れ替わる」


 それだけ言って、クレアの方を見る。


 クレアは一瞬驚いた顔をして、

 でも何も言わずに外に出た。


 ドアが開いて、街の音が流れ込む。


 その瞬間。


 クレアが、後部座席を見る。


 ――つかさの方を。


 いつもと違う笑みだった。

 説明できないけど、何かを確信している顔。


 俺は首を傾げる。


「……?」


 次の瞬間、つかさが声を上げた。


「ああーー!」


 突然、頭を抱える。

 後部座席で身をよじり、素足のサンダルがばたばたと揺れる。


「え? なに?」


 完全に置いていかれる。


 エルが後部座席に乗り込み、

 クレアは助手席へ戻る。


 何事もなかったように、前を向く。


 俺はますます分からない。


「……何だったんだ、今の」


 つかさは答えない。

 ただ、頭を抱えたまま。


 その横に、ニャースケが座り込んだ。


「服を買ったほうが良いのは、

 みゆじゃなくて、つかさだにゃ~」


 間を置いて、


「……ドンマイにゃ~」


 つかさが、うめく。


「……うるさい」


 俺は、ようやく少しだけ分かった気がした。

 でも、全部は分からない。


 たぶん、

 分からなくていいことなんだろう。


 車は、また走り出す。


 日常に戻ったように見える。

 けれど、空気は――完全には戻っていなかった。


 デパートの自動ドアが開く。


 冷えた空気と、甘い匂い。

 人の声が重なって、さっきの車内が遠のいた。


 上階の服売り場へ向かう。

 エスカレーターの規則正しい音が、頭を空にしてくれる。


 つかさは、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、少しだけ機嫌がいい。

 歩くテンポが軽い。


「やっぱ、ここ来ると落ち着く」


 独り言みたいに言って、ハンガーを引き抜く。

 色を並べて、迷って、戻す。

 その繰り返しが、妙に平和だ。


 気づけば、俺の手には紙袋が増えていた。


「まだ増える?」


「たぶん」


 即答。

 俺は何も言わず、持ち替える。


 クレアは、仕事の顔をしていない。

 評価でも分析でもない目で、売り場を眺めている。


 エルは、少し離れて歩く。

 警戒しているようで、していない。

 今日は、本当に“普通”だ。


 ニャースケが小さく伸びをする。


「今日は平和にゃ」


 誰も否定しなかった。


 そのとき、クレアの端末が短く震えた。

 画面を見て、表情が切り替わる。

 でも、硬くならない。


「少し、呼ばれました」


 それだけ。


 エルが頷く。


「……行く」


 ニャースケも続く。

 自然な流れで、三人は下へ向かった。


 残ったのは、俺とつかさ。


 売り場が、急に広く感じる。


「……本当に、何も起きないな」


 俺が言うと、つかさは笑った。


「今日は、そういう日でいいの」


 人が行き交う。

 試着室のカーテンが開く音。

 レジの電子音。


 世界は、ちゃんと回っている。


 ――大丈夫。

 少なくとも、今は。


 そう思わせるには、十分すぎるほどの平和だった。


 デパートを出て、少し歩いた。


 人通りは減っている。

 でも、完全に静かというほどでもない。


 足音が、ひとつ多い。

 俺たちのじゃない。


 ――同時だった。


 こちらも、向こうも、気づく。

 言葉が出る前に、距離だけが測られる。


 そのとき、甲高い声が割り込んだ。


「待ってー!」


 子供が、角から飛び出してくる。

 小さな靴音が、舗道を叩く。


 俺たちと、向こうの影のあいだを、一直線。


 視線が一斉にそちらへ向いた。

 銃口が、下がる“気配”。


 撃てない。

 理由は、それだけで足りた。


「危ないよ」


 誰かが言った。

 どっち側の声かは、分からない。


 子供は親のもとへ戻り、

 世界が、元の速度に戻る。


 ――戻ってしまった。


 空気が戻った、その瞬間。


「……おとなしく、ついて来い」


 低い声。

 感情はない。圧だけがある。


 距離は近くない。

 でも、逃げ道を数えているのが分かる。


 俺の横で、つかさが一歩踏み出した。


 次の瞬間、

 手首を掴む動き。

 乾いた音。


 銃が、地面に落ちる。


「伏せて!」


 誰かの声。

 人が散る。


 撃ち合いは短い。

 派手じゃない。

 でも、十分に速い。


 視界が割れる。

 角を曲がった先で、道が分かれる。


 下へ行ける通路。

 上にしか行けない通路。


 選択肢が、同時に迫る。


 ここは――

 選ばされる場所だ。


 迷っている時間は、なかった。


 下へ行ける通路と、

 上にしか行けない通路。


 どちらも、逃げ道としては中途半端だ。

 でも、止まった瞬間に終わる。


「ゆうと!」


 つかさの声。

 短い。判断を促す音。


 俺は反射的に、下を選んだ。


「こっちだ!」


 言葉と同時に、体が動く。

 後ろで、足音が分かれる気配がした。


 ――分かれた。


 意図したわけじゃない。

 でも、もう戻れない。


 階段を駆け下りる。

 金属の手すりが冷たい。


 背後で銃声が一発。

 壁に弾が当たる音が遅れて届く。


 撃ち返す余裕はない。

 今は距離を取る。


 角を曲がった先で、視界が開ける。

 地下の通路。

 照明がまばらで、人の気配が薄い。


「……エル?」


 返事はない。


 通信も、つながらない。

 ノイズだけ。


 胸の奥が、嫌な形で冷える。


 分断した。

 完全に。


 俺は、足を止めない。

 止まったら、考えてしまう。


 ――誰と、どこで、分かれたのか。


 今は、それを整理する時間じゃない。


 足音が、また近づく。

 追ってきている。


 逃げるだけじゃ、足りない。


 この先で、

 何かを決めなきゃいけない。


 それだけは、はっきり分かった。

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