第39話 少し、元気になった日
白瓏邸は、静かだった。
音がないわけじゃない。
端末の操作音も、足音もある。
それでも、時間が流れていないみたいに感じる。
解析は続いている。
回収物も、海域データも、断縫鮫の残滓も。
――成果は、出ていない。
誰も口には出さない。
けれど、皆が分かっている。
進んでいないという事実だけが、部屋に溜まっている。
つかさは端末から目を離し、少しだけ肩を回した。
疲れた、と言うほどじゃない。
ただ、同じ場所に立ち続けている感覚。
クレアは資料に目を通している。
表情は変わらない。
だが、ページをめくる指が、いつもより遅い。
ゆうとは椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げた。
何かを考えているわけでもない。
考えても、答えが出ないからだ。
エルは静かに立っている。
命令待ちではない。
ただ、動く必要がないだけ。
ニャースケも、珍しく言葉が少ない。
寝ているわけでも、油断しているわけでもない。
空気が、張り付いている。
事件は終わったはずだ。
命の危険も、今はない。
それなのに、
終わった感じがしない。
白瓏邸は安全だ。
だが、安心できる場所には、まだ戻っていない。
時間だけが、
淡々と、先へ進んでいく。
最初に気づいたのは、音だった。
廊下の向こうから、軽い足音がする。
今までより、少しだけ弾んでいる。
みゆだった。
顔色がいい。
それだけで、部屋の空気がわずかに動く。
「おはよー」
声も、前よりはっきりしている。
無理をしている感じが、ない。
つかさが顔を上げる。
「……調子、よさそうね」
みゆは、少し照れたように笑った。
「うん。今日は、頭もふわふわしないの」
医師の報告は簡単だった。
数値がどう、ではない。
「外の空気なら、短時間なら大丈夫でしょう」
それだけ。
特別な許可じゃない。
でも、それで十分だった。
白瓏邸の空気が、ほんの少しだけ緩む。
みゆの会話が増える。
質問も、冗談も戻ってくる。
クレアが紅茶を差し出すと、
みゆは両手で受け取って、ちゃんと「ありがとう」と言った。
その仕草が、前より落ち着いている。
ゆうとは、その様子を横目で見ながら思う。
――戻り始めている。
完全じゃない。
でも、確かに。
停滞していた時間に、
小さなひびが入った。
それは壊れる音じゃない。
光が入る前触れみたいな、静かな変化だった。
つかさは、みゆの様子を少し離れたところから見ていた。
笑っている。
無理に元気なふりをしている感じはない。
声の調子も、間の取り方も、
前より自然だ。
――戻ってきてる。
そう思った瞬間、
胸の奥で、別の感情が動いた。
安心、とは少し違う。
ほっとした、でもない。
何かしたい。
理由は単純だった。
良くなったことを、ちゃんと形にしたい。
治った証明でも、回復の記録でもない。
もっと、どうでもいいことでいい。
つかさは、ふと自分の服に視線を落とす。
選んだのは自分。
誰かに決められたものじゃない。
――そうだ。
みゆにも、
自分で選ぶ時間が必要だ。
値段の話じゃない。
用意して渡すのとも違う。
誰かが選んだ“正解”を着せるんじゃなくて、
自分で「これがいい」と言えること。
それが、今のみゆには大事な気がした。
つかさは、視線を逸らす。
本人には、言わない。
驚かせたい。
ついでに――
自分も、その時間に関わりたい。
少しだけ、
日常の側に戻るための理由。
胸の内で、決める。
服を買いに行こう。
大げさじゃない。
秘密にするほどのことでもない。
でも、
今日という日を、
ちゃんと“いい日”にするには、十分だった。
話題にしたのは、つかさだった。
思いついたような口調で、
でも、軽すぎない。
「……服、見に行かない?」
誰かに向けた提案というより、
部屋に置いた小石みたいな一言。
反応は、すぐには返ってこない。
エルが、ゆうとを見る。
ゆうとは一瞬考えてから、肩をすくめた。
「いいんじゃないか」
否定もしない。
押しもしない。
ニャースケは、尻尾を軽く振る。
「外の空気、悪くないにゃ」
クレアは少しだけ考えてから、頷いた。
「短時間なら、問題ありません」
決定は、宣言されなかった。
ただ、揃っただけだ。
外出メンバーは、自然に決まる。
ゆうと。
エル。
ニャースケ。
つかさ。
クレア。
みゆは――留守番。
そのことを伝えると、
一瞬だけ、残念そうな顔をした。
でも、すぐに表情を整える。
「うん。大丈夫」
無理をしていないのが、分かる。
クレアは、みゆが選んだ服を着ていた。
年相応で、少し可愛らしい。
本人は、どこか落ち着かない様子で、
袖を整えたり、姿勢を直したりしている。
「……変ではありませんか?」
珍しく、そんなことを聞く。
つかさは、即座に首を振った。
「全然。
似合ってる」
クレアは、それ以上何も言わない。
ただ、小さく息を吐いた。
玄関に向かう。
車の鍵の音が、静かに響く。
今日は、何も起きない前提の外出だ。
それが、少しだけ不思議で、
少しだけありがたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます