第4話

 集まった人々がざわつく。

 それを意にも介さず、かげは前に進み出て、あやをさりげなく横へ押しやった。


「伯爵様――いいえ、お義兄にい様。姉の婚礼以来ですわね。ご無沙汰してしまって、申し訳ございません」


 にっこりと可憐な微笑み。どんな人でも騙せてしまう笑顔。

 その背後から継母が顔を覗かせる。隣に父もいる。

 あやの全身にぞっと怖気おぞけが走った。

 

 ――その瞬間、目の前に章次しょうじが立った。

 実家の者たちを遮るように――あやを守るように。薄い茶色の髪が、洋風灯篭シャンデリアの明かりを受けてきらめいた。


「ご無沙汰しておりましたのは、こちらも同様にございます。――さて、今宵は何のご用で?」


 章次の問いに、継母がわざとらしく微笑んでみせた。


「用だなんて、そんな大層なことは! 義家族かぞくとしてご挨拶に参っただけですわ。近ごろ、伯爵様は商売の方も順調でらっしゃるようで……」


 なるほど、彼が成功しているから、今になって取り入ろうというのだろう。

 あやの胸にざわざわとした不安が押し寄せてきた。

 ――しかし。


「なるほど、義家族かぞくと。……ならばひとつ、お伺いしても?」


 章次の声には、初めて聞くような冷たさがあった。

 あやはどきりとして彼の背を見上げる。章次はあやの実家の者たちの顔を一人ずつ眺め、言った。


「家族に礼を尽くすことをお考えならば、なぜ我が妻に――あなた方の娘あるいは姉である人に、一言の挨拶もないのです?」


 ぴしり、と空気が凍りついた。

 集まった者たちがひそひそと囁き合う。継母は一瞬で耳まで赤くなった。

 美影が慌てたように言った。


「そ、そんな……妻よりも旦那様にまずご挨拶するのは当然のことでしょう? ましてや姉なんて、こちらにとっては身内で……」

「そうでしょうか? 今や新たな世の中です。女性も男性と同様に敬意を受けるべきだ。違いますか」


 周囲の婦人たちが目を見交わしている。中にはうんうんと頷く者の姿も見えた。

 章次がふいに、あやの肩を抱いた。頬が熱くなるのを感じながら、あやは夫の顔を見上げた。

 彼の瞳がきゅっと細められる。美しい口元から、鋭い言葉が発せられた。


「それに、この際ですから申しましょう。――あなた方が我が妻をどのように扱っていたか、私はすべて存じております」


 実家の者たちは今度こそ、その場で棒立ちになった。


「我が妻を――あやさんを奥座敷に独り閉じ込めて、下女のように家事をさせていましたね。与えられるべきだったものをすべて奪って、妹君いもうとぎみにのみ与えていた。違いますか」

「そ、そんな! 証拠がどこに……」


 継母が裏返った声を上げる。章次は冷たく彼女を見下ろした。


「私の雇っている者が、お宅を商談で訪れた際に見たのですよ。ぼろを着て、手をあかぎれだらけにして、冬のさなかに水仕事をしているあやさんの姿を。それをきっかけに、いろいろと調べさせてもらったのです」


 章次の金色の瞳が、見たことのない冷たさで底光りした。

 継母と妹が後ずさり、凍りついている父にぶつかった。


「これを機会にお伝えいたします。私は二度と、あやさんをあなた方にかかわらせるつもりはない。そして夫であるこの私も、あさ家と関係を持つことは決してない。――我が愛しき妻を虐げた報いだとお思いなさい」


 実家の者たちを取り囲んでいた人々が、すうっと離れていった。


「まさか……」

「そんなひどいことを」

「変だと思っていたのよ、長女の話なんてほとんど聞かないから……」


 ざわざわと噂する声が広がっていく。

 継母がこちらを睨んでいる。その目は『伯爵の話を否定しろ』と言っている。これまでのとおり、自分たちの言うとおりにせよ――と。


 あやは大きく息を吸い、震える声を発した。


「――章次様のお言葉に嘘はございません。章次様は、私に人生を取り戻してくださった方でございます」

「……っ!!」


 顔を真っ赤にした妹が、継母と父の腕をぐいと引く。

 そのまま三人は急ぎ足で広間を出ていった。


  ***


 舞踏会の喧噪を離れ、西洋館の露台ヴェランダに出る。涼しく気持ちのよい夜風が吹いていた。

 あやは露台の手すりに寄りかかり、瓦斯ガス灯が輝くのを眺めている。その背中を、章次はじっと見つめた。


 ――あやを愛している。出会ったときから、ずっと。

 ただし「出会ったとき」というのは、虐げられている彼女の存在を人づてに知ったときではない。

 もっと、ずっと前。幼かったころ。彼女がすべてを失う前の話だ。


 自分は生まれたときから、全身の色素が薄いせいで、周囲の人々に距離をあけられていた。

 家族だけが味方だったが、八つのときに悲惨な馬車の事故で父母と兄が死亡。自分だけがほぼ無傷で生き残った。


『気味の悪い子』

『きっと呪われているのよ』


 葬式で人々の囁く声を聞き、思わず屋敷を飛び出した。

 行く当てもなく、ただ泣きながらさまよい歩いていた。


 そんなときだった。

 たまたま通りかかった邸宅から出てきた小さな女の子が、声をかけてくれたのは。


『ねえ、どうして泣いているの?』


 答えられずに泣きじゃくる彼の頭を、黒髪の少女はそっと撫でてくれた。


『私ね、つらいときは本を読むのよ』

『本を……?』

『ええ、そうよ。本の中の人たちが、いっしょにいてくれるから』

『いっしょに……』

『ええ! だいじょうぶ、あなたはひとりじゃないわ』


 そう言って微笑む少女の顔が――忘れられなくて。


『……君の名前は?』

『あやよ。浅輪あや』


 その名前を、記憶に刻みつけた。


「あやさん」


 そっと呼びかける。いま目の前にいる愛しい人に、彼の落窪姫シンデレラに。


「はい、章次さん」


 振り返って微笑む薄紅色の唇に、章次はそっと接吻キスを落とした。

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本を愛する虐げられ乙女は呪われ伯爵と幸せをつづる 佐斗ナサト @sato_nasato

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