第3話

 その日から章次しょうじは、あやに読み書きを教えてくれた。

 帰宅後、夕餉ゆうげまでの間が勉強の時間だ。あやは筆と本を握りしめ、渇いた花の根が水を吸い上げるように学んだ。


「『すると、どうでしょう。竹の中に、まことかわいらしい、女の子がいたのでした』……」


 今日も自分で書き写した文字をなぞりながら読み上げる。

 すれば、章次が優しく微笑んだ。


「そうだよ。自信を持つんだ。よく読めているし、きれいに書けている」

「……本当ですか。よかった」


 ほっと安堵して口元をほころばせる。すれば章次の手がそっとあやの頭にのせられた。

 ぽむ、ぽむ、と優しい感触。そっと離れていく、温かい手。


(ああ――頭を撫でられたのなんて、いつぶりかしら)


 記憶の奥、愛されていたころを思い出す。頬がほのかに熱をもつ。

 照れ隠しに顔を背けて、心にもないことを言ってしまった。


「章次様。そんな、子どもになさるようなこと、いけません……」


 すれば章次は、照れ隠しなのを見抜いたかのように目を細めた。


「嫌だったかい? すまなかった。あやさんがかわいらしくて、ついね」

「……そんな」


 顔全体が一気に熱くなる。殿方に「かわいらしい」だなんて、十七年生きてきて言われたことがなかった。

 あやは思わず、手元の本で顔を隠した。章次がくすくすと笑うのが聞こえた。


  ***


 あやはいくらもしないうちに、前は読めなかった物語本を読めるようになった。嬉しくて嬉しくて、書斎の本を端から読み進めていった。

 新しいものに敏感な章次が、近ごろ巷で話題の「小説」なども買ってきてくれるから、そちらも浴びるように読んだ。それから雑誌も。新聞も。

 あやの世界は、どんどん外へと開いていった。


 奇しくも同じころ、章次も実業家としての手腕を開花させ始めた。外国から輸入した品物を取り扱う商売が軌道に乗り始めたのだ。

 それもまた、あやにとっては嬉しいことだった。自分を大切にしてくれる人が成功を得て、喜ばしくないわけがなかった。

 ――だから。


「章次様! お帰りなさいませ」


 彼の顔を見ると、自然と笑みがこぼれるのだ。

 ただいま、と言ってくれる彼の言葉を聞くと、心臓がとくとくと高鳴るのだ。


「あやさん、表情が明るくなったね」


 上着を脱いで使用人に渡しながら章次が言う。

 あやは思わず両頬に手を当てた。


「そう……でしょうか」

「ああ。とてもいい顔をしている」


 ……嬉しい。継母には、表情の乏しい不気味な子だとばかり言われていたから。

 はにかんでうつむくあやに、章次は優しく目を細めた。


「そんなあやさんにひとつ、お願いがあるんだ」

「……はい、何なりと」

「来月、舞踏会に招かれたんだ。私と一緒に、君も出てくれないかな」

「舞踏会、ですか?」


 舞踏会というと、良家の人々の社交の場のうち、最も華やかなもののひとつではないか。


(そんな場所に私が出て、大丈夫なのかしら)


 粗相をしないだろうか。心に不安がきざす。でも、章次の期待を裏切りたくはなかった。

 彼が大切にしてくれる、変わりつつある人として――そして、伯爵夫人として。


「分かりました。お伴いたします」


 あやが頭を下げると、章次は至極嬉しそうに微笑んでうなずいた。


「では、まずは晴れ着選びからだ」


  ***


 舞踏会の晩。瓦斯ガス灯で照らされた大きな西洋館。

 その広間の扉が開き、華やかな洋装の章次が姿を現わす。その隣で彼の腕にそっと手を添えているのは、あやだった。


 会場にいた者たちが息を呑んだ。

 常日ごろは和装のあやである。しかし今夜の彼女がまとっているのは、舶来はくらいものの美しいドレスだった。

 ふんわりとした袖、豊かに広がったスカート、繊細なフリルの装飾。

 だがその衣装に着られてしまうことなく、儚くも凛然として背筋を伸ばし、豪華な洋風灯篭シャンデリアの下を歩いてゆく。


 ざわざわと噂する声があちこちから上がった。


「あれが篠塚しのづか伯爵夫人か?」

「まあ……お美しいこと」

「呪われ伯爵のところに嫁が来ようとはな」

「でも、最近は商売の方もだいぶ調子がよいのでしょう? そんな陰口を叩いていてよろしいの?」


 周囲の声が聞こえないかのように、章次は悠然と歩んでいく。

 あやはそっと辺りを見回し――そして凍りついた。


 実家の家族だ。父、継母、妹。三人揃って、こちらをじっと睨んでいる。

 考えてみれば、大きな海運業者を経営する彼らも、招かれていて何ら不思議はなかった。


(……怖い)


 あやは思わず、章次の腕を握る手に力を込めた。

 すると章次はあやを見やり、優しく微笑んだ。


「――踊ろうか、あやさん」


 言うなり彼はあやの両手を握り、華麗な足取りで広間の中央に進み出た。

 この日のために彼と書斎で練習した「ステップ」を、あやは懸命に踏んだ。


(前、横、揃える……後ろ、横、揃える)


 すぐ近くで、章次の金色の瞳が輝く。彼の色白の唇が、美しい笑みを描く。

 そっと耳元で囁かれた。


「そうだ、あやさん。上手だよ」

「本当……ですか?」

「ああ。周りを見てごらん」


 言われるまま、周囲に注意を移す。すれば集まった人々が揃ってこちらを見ていた。

 好奇の目線かと思いきや、そうではない。信じがたいことだが、どうやら見とれているようなのだ。


 曲が終わる。最後のステップを踏み終える。

 章次とあやが礼をとると、わっと拍手が湧き起こった。


 人々が賞賛の言葉を伝えに集まってくる。

 ――だが、その人の輪を押しのけて現れたのは。


「伯爵様! お見事でしたわ」


 あやの妹、かげだった。

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