第2話

 婚礼の日。

 隣に立つ新たな夫の顔を、あやは綿帽子の下からそっと覗き見た。


 篠塚しのづか章次しょうじ伯爵は、若かった。あやよりほんの三つ年上の二十歳だという。

 そして、変わった見た目をしていた。きれいに整えられた髪は、光をきらきらとはじく明るい茶色。瞳はごく淡い金の色。きめ細やかな肌も透き通るように白かった。

 つまるところ、全体的に色素が薄いのだ。その変わった見た目をしかし、あやは不気味だとは思わなかった。


(……きれいな人)


 すっと通った鼻筋、長い睫毛、穏やかな線を描く口元。それらを彩る朝の光のような色。

 異国の貴人か何かだと言われても信じられる美貌だ。

 自分の状況も忘れ、あやはしばらく見入った。


 ふと、章次がこちらを向いた。あやは慌てて目を逸らし、顔をうつむけた。

 しばらく彼の視線を感じた。だがやがて、金の瞳はすっと離れていった。

 あやはほっと安堵した。


 きれいな人だ。きれいな人では、ある。

 ――だが。


(何を考えて私をお求めになったのか全く分からないお方と、これからどう暮らしていくことになるのかしら)


 婚礼の儀式を進めながら、小さく溜め息をつく。

 亡き母の言葉を、なぜかふと思い出した。


『あや。どんな人にも、誠実に接するのですよ。自分がされて嫌なことをしてはなりません』


 ふう、ともう一度息をつく。そうだ。きっと至極、単純な話なのだ。

 目を閉じ、心の中で呟いた。


(はい、お母様)


  ***


 その日の夜。

 伯爵邸――立派な和風の邸宅である――の一室で、あやは章次と向かい合った。


「旦那様。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 言って三つ指をつき、深く礼をとる。

 しばらくしてから顔を上げると、章次はどこか困惑したような表情をしていた。


「……失礼をしてしまったでしょうか」

「いや、そんなことはない――そうかしこまらなくてもいい」


 柳眉を寄せ、章次はしばらくあやの顔を見やる。

 それから静かに口を開いた。


「君、私が怖くはないかい」

「え……? いいえ、旦那様」


 思わずきょとんとしてしまう。どう接するべきか迷いこそすれ、怖いとは思わない。

 怖いものがあるとすれば、実家の者たち。あやの大切なものを奪って、表情ひとつ動かさなかった人々。


(あれほどに恐ろしい人たちは――きっと他にいないから)


 章次はしばらく考えるようにしていたが、やがて穏やかな声を発した。


「旦那様ではなく、章次と呼びなさい。いいかな」

「……はい、章次様」


 あやが頷くと、章次はようやく、小さく微笑んだ。


  ***


 翌朝のことである。まぶしい光がまぶたを透かすのを感じて、あやは飛び起きた。


「……寝坊したっ!」


 その直後、自分がどこにいるのか分からなくて、ひとしきり慌てた。

 そうだ、ここは実家の奥座敷ではなく、章次と自分の共有する部屋だ。

 どうやら婚礼の疲れでぐっすりと眠り込んでしまったらしい。彼が出ていくのにも全く気づかなかったのだ。


(失礼をしてしまったわ。お見送りくらいしなければならなかったのに)


 太陽の感じからして、もう昼ごろだろう。いくらなんでも眠りすぎだ。

 辺りを見回しながら布団を出る。すると外から声がかかった。


「お目覚めでございますか、奥様」


 おそらくは屋敷の使用人だろう。

 奥様とは誰のことだろう、と思い、ややあって自分だと気づく。分不相応な扱いに感じて、頬がほのかに熱くなった。


 だが「分不相応な扱い」は奥様呼び程度ではすまなかった。

 てきぱきとした使用人に、美しい矢絣やがすりの着物を着つけられ、髪も丁寧に整えてもらった。

 おいしい昼餉ひるげを出してもらい、温かなお茶まで淹れてもらった。

 だが何よりもあやの心を奪ったのは、そのあとに連れてゆかれた場所だった。


「こちらでございます、奥様」


 屋敷の奥。庭に面した、気持ちのよい部屋。伯爵家は和風の邸宅だが、ここは洋間らしい。

 大きな机、舶来はくらいものだろう文房具。気持ちのよさそうな安楽椅子。

 そして壁一面に作りつけられた棚に、びっしりと本が並んでいるのだった。


「……まあ!」


 和綴じのものから、あやの知らない言語で書かれた異国の本まで。

 こんなにたくさんの本を見るのは――いったい、いつぶりだろうか。

 感極まるあやに、使用人は小さく微笑んだ。


「今日の午後はこちらで過ごすようにと、旦那様の仰せでございます。本はお好きに読んでいただいて構わないとのことです」

「そんな……よろしいんですか?」

「『私のものは妻のものだ』と言っておられましたので。どうぞ、ごゆっくりと」


 言って使用人は頭を下げ、退出していく。あやは言葉を失った。


(どうして――私なんかのために)


 震える脚で本棚に歩み寄り、目についた本を引っ張り出す。

 表紙の文字を指先でなぞって、読もうと試みた。


「おち、……物、語?」


 だめだ。学校を途中でやめさせられたから、難しい漢字は読めないのだ。

 それでも――この本が読みたかった。あやは表紙を開き、文字とにらみ合い始めた。


  ***



 書斎の扉が重い音を立てて開いた。

 あやが驚いて顔を上げると、戸口に洋装の章次が立っていた。

 とっさに窓の外を見やる。いつの間にか日は傾き始めていた。


「……章次様、申し訳ございません。夢中になってしまって……」


 安楽椅子から立ち上がろうとするあやをしかし、章次は小さな笑みを浮かべて押し留めた。


「読めたかい?」


 静かに問われ、あやはうつむく。小さくかぶりを振った。


「……いいえ。私は尋常じんじょう小学校を九つでやめてしまったので、難しい漢字は読めないのです」


 本を閉じ、もう一度表紙を見やる。すれば章次が人差し指を伸べ、黒い墨の文字をひとつひとつたどった。


「『落窪おちくぼ物語』。平安のころの物語だ」

「おちくぼものがたり……」


 くぼ、窪、窪。

 指先で何度も文字をなぞる。その様子を見て、章次が穏やかに笑んだ。


「あやさん。今からでも読み書きを学び直すといい」

「え……?」


 思いもよらない言葉にあやは目を見開く。章次の美しい顔をじっと見返した。


「それは、伯爵夫人として恥ずかしいところのないように……でしょうか」


 すれば章次はかぶりを振った。


「いいや。――私はね、つらいときは本を読むんだ。あなたにももう一度、そうできるようになってほしい」

「私、にも……?」


 ――どきり、と心臓が跳ねる。

 この人は、どうしてこんなに優しいのだろう。


(悪い噂があるらしいけれど、そんなの信じられないわ)


 どきどき、どきどき。心臓の鼓動が止まらない。あやは両の手をそっと握り合わせた。

 章次は黙って金色の目を細める。そして手を伸ばし、あやのおくれ毛をそっと耳にかけてくれた。

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