夢告の展示物

白里りこ

夢告の展示物

 博物館に吉夢を見ている。


 『更級日記』の中に、「阿弥陀仏来迎の夢」というくだりがある。

 内容はこうだ。死ぬほどのつらい目に遭っても命は続くもので、今後も人生は思い通りにはならないだろうが、一つだけ心の拠り所がある。以前、阿弥陀仏が現れる美しい夢を見たのだが、そこで阿弥陀様は「後で迎えに来る」と仰ったのだ。

 つまるところ作者の菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめは、極楽往生を約束されるという、縁起の良い夢を見たのである。

 鬱病という病苦に悩まされる私も、しばしば涅槃を渇望する。

 私の病状には、身体症状が強く出るという特徴がある。時に胸に硬い岩がぎちぎちに詰まっているような、時に頭が雑巾絞りにされて捻じくれているような、時に全身の内側から無数の太い針が刺さっているような激痛が、容赦なく襲いかかってくる。

 まさしく一切皆苦である。この苦痛から逃れる術は、安らかに死ぬ以外にないと思う。しかし現実には、命は続くものだ。

 仕方がないので、代わりに博物館に出かける。


 突発的に遠出をして、一人で気儘に珍しい物を見て回るのは、気分転換には最適だった。歴史が好きなので、観覧するのは国内外の古い文化財であることが多い。

 しかし先日、たまには自然科学に触れてみようと思い、科学博物館を訪れた。

 率直に感想を言うと、あまり楽しくなかった。

 ロボットの新技術も、地球環境の保全も、重要なのは分かるが、熱心に眺める程ではない。興味がないのかというと微妙に違う。輝かしく開かれた未来とか、人類の存続の為の努力とか、そういう前向きな気勢を感じたために、少し鬱陶しくなったのである。

 この感覚は何かに似ていた。

 思い出したのは、ベルリンを訪れた時のことだ。ベルリンの壁の遺構を見るのを楽しみにしていた私は、実際にイースト・サイド・ギャラリーに赴き、思いのほか煩わしく思った。

 恐らく私がこの目で見たかったのは、時が停止したままぽつんと取り残されている、過去の遺物だったのだろう。だが、既に役目を終えて死んでいるはずの壁は、画家たちによる自由なアート作品によって彩られ、未だに溌剌と生かされていた。そこに私は、そこはかとない救いのなさを感じていた。

 終わりが見えないことは、私にとって非常につらいことだった。科学博物館とギャラリーの共通点は、ここにあったのだと思う。永遠無窮の価値観は、果てしのない苦しみを連想させる。

 反対に、諸行無常の理には安堵を覚える。現在はいつか過去になり、苦痛はいずれ消滅し、命はやがてなくなることが、保証されているからだ。

 菅原孝標女も、長い絶望の日々の中、極楽の夢に縋っていた。最期には救済されるという希望のみを恃みに生きていた。


 滅んだ物は美しいと思う。そして歴史的遺産は、死の概念を含有している。博物館には、死が陳列されている。

 それらに触れることで、私は希死念慮を昇華しているのかもしれない。死への憧憬を抱いているからこそ、滅亡した文化に強烈なほどに惹かれるのだ。

 メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土版。古代エジプト文明の金で出来た副葬品。アステカ文明の神を模した彫像。

 かつての栄華と生彩の象徴だった人工物が、今や粛然と沈黙して横たわっている。活気と静謐。喧騒と空寂。命脈と物故。

 在りし日の隆盛とその衰亡に思いを馳せることで、私は阿弥陀如来の夢を見る。苦海から浄土を垣間見て、束の間の休息を得る。


 東ドイツもまた、ある時を機に、西ドイツへの統合という形でぱたりと終焉を迎えた。ベルリンの街は丸ごと西ベルリン的な物に塗り替えられた。東ベルリン的な物は、僅かにその残骸が散見されるに過ぎない。

 しかし確かにそれは存在する。本来の姿を残した壁に、空を穿つテレビ塔に、一部の信号機の意匠に、ひっそりと息づいている。まるで死が身近に溶け込んでいるかのようだ。つい最近に──私が生まれるほんの少し前に死んだばかりの、濃厚な影が。

 私は自分のためのベルリン土産として、アンペルマンを象ったキーホルダー只一つだけを購入した。信号人間を意味するそれは、東ドイツの歩行者用信号に使われた可愛らしい人物絵であり、今でも懐古趣味を持つ人々からの人気が高い。

 私も買った時にわくわくと高揚したのを憶えている。或いはそれは、死の代替品を手に入れた充足感であり、吉夢に巡り会ったことのよろこびであった。


 今後とも私は希望を求め、気の向くままに博物館に通うことであろう。それは歴史を紐解く展示でも良いし、古代生物の化石を研究する展示でも、宇宙の始まりを解き明かす展示でも良い。

 終わってしまった物にこそ宿る、美しくも淡い瑞夢がある。

 夢路の道の果てよりも尚遠く彼方に、安楽の地があることを願って。

 合掌。

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