第39話【嵐の前の静けさ】

 僕は、特に才能は無いけれど、人に害を与えずに生きることができる。個人的にはそう思っているし、たぶん、その評価は大きく的を外れてはいないのだろう。


 ただ才能が無い、というだけで、僕は交渉ごとの取りまとめとかは得意なのだ。


 僕は例の男の部屋に辿り着くと、備え付けのインターフォンを押した。電子的なチャイムの音が鳴り響けば、数秒後、ドタバタという足音とともに、目の前の扉が勢いよく開いた。


 開口一番……。

 

「誠! どうだ!? いけそうか!?」

「あ……えっと……」

「なんなら俺らが部屋に行くぜ!」

「ちょ……」


 男は捲し立てるようにそう言ってから、ハッと我に返り僕を見た。男の顔は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、なんだかとても格好悪い。正直、鳩が豆鉄砲を食らった顔をするのはどちらかと言えば僕の方だとは思うんだけど、まあ、この際それはどうでもいい。


「……一旦、話を聞いてください」


 僕はワントーン下げた冷たい声でそういうと、男の顔に視線を送った。僕の顔は客観的に言うと、たぶん感情の抜け落ちた虚無顔だったと思う。興奮しきっている男を落ち着かせるには、まあ、これくらいで丁度良いだろうから。


 僕は、僕のモブというアイデンティティより生まれた空気の読み方で、この場の空気を統制した。


「お、おう……それで、どうなった……?」


 男は僕の淡々とした物言いに何かを感じたのか、少しテンションを下げながら、僕に続きを促した。


 良かった。話は通じるタイプみたいだ。いくら山本に似てるとはいえ、一応別人だからな。確認が取れて良かった。


 僕はそう思いながら口を開き、ざっと結論を説明した。


 僕らの部屋は人数が少なく不利なこと。美大志望の子が居るから、より努力が必要なこと。あくまで僕らの命が最優先だから、無理なオーダーには答えられないこと。伊藤は了承したけれど、絵を教えるのは僕らに余裕ができてから、ということ。

 

 「……結論、貴方たちに絵を教えます。ですが、それは僕らの部屋に余裕ができてからです。……大丈夫ですか?」


 僕はあくまで事務的に、こちら側の立場が上であることを示唆するように、感情を出さずにそう言った。こういうのは、舐められたら終わりだ。普通の雑用とかならまあ良いかなとは思うけど、今回は命が懸かってる。消して舐められてはいけない。


 僕はそんな自己防衛を目的とした危機感を胸に、男に言葉を伝達した。


「…………」


 男が沈黙する。ほんの僅かなその一瞬。彼は微妙に眉をひそめ……そして、僕にこう言った。


「……なんか、申し訳ないな……。だが、ありがとう! 待ってるぜ!」



 ああ。こいつ……ガチで良い奴だ。



 僕の緊張とは裏腹に、どこまでも良い奴だった彼は、僕が玄関から立ち去った後で、ゆっくりと部屋の扉を閉めた。



♤♤♤



「ただいま。伝えてきたよ……って、なにこれ」

「「「お、おかえりー!」」」


 数分後、僕が部屋に戻ったとき、僕の部屋は原型を留めていなかった。


 原型を留めていない、は言い過ぎかもしれないけど、でも、そう形容せざるを得ない状況に僕は置かれていた。さっきまで布団を雑に片しただけの空間だったそこが、今は、とても綺麗に整頓されている。布団はちゃんと押し入れに戻され、散らばっていた座布団なども使っていない分は端に寄せられている。僕らの荷物も本来あるべき場所……収納スペースにしっかり収まっていて、絵を描くスペースがこれでもかと確保されている。


 僕が部屋を出て戻ってくるまでの約10分間で、一体何があったのか……。僕はそこが気になってしょうがなかったけれど、まあ、単純に邪魔だったからだろう。


 僕は空いている座布団を探して、ようやく腰を落ち着けた。


「……で、どこまで進んだんだ?」


 僕は隣に座る山本に話しかけ、絵の進捗を確認する。さっきはまだラフの状態だったから、まあ、まだそれくらいだろうな。


 僕はそう思いながら山本の返答を待った。でも、実際に僕の質問に答えたのは、山本ではなく伊藤だった。


「よし……ラフができたよ! じゃあこれから、役割分担をしていきます!」


 伊藤は明るい声でそういうと、パッと僕らに視線を向けた。過去一楽しげな視線を向ける伊藤を見て、僕はああ、とまた考え込んでしまう。


 伊藤は、本当に絵が大好きなんだな、と。


 美大を志望するくらいなんだから、まあ絵は好きだろうとは思っていたけれど、こうして伊藤を見ていると、改めてそう思わされる。絵に向き合い、完成を喜び、目を輝かせる……それは、純真な少年のようなそれで、絵に対する愛情の現れだった。


 伊藤は本気で絵と向き合っている。本気で、絵で生きていこうと頑張っている。才能の無さに苦しんでいるけれど、でも、それでも挫けないのは……純粋に、絵が好きだからだ。


 投げ出さないために必要なものはもしかしたら……心の強さじゃなく、好きって気持ちなのかもしれない。


 僕は歌詞にしたらそれっぽくなりそうなことを思い浮かべながら、伊藤の声に耳を傾ける。これからここで行われるのは、僕らの絵の役割分担だ。たぶん、どの色を塗るとか、どこを担当するとか、そういうのを決めていくんだろう。


 僕はきっとそうだろうと思っていたから、伊藤の絵を見つめ、どこなら僕でもできそうかを真剣に、真面目に考えていた。


 ――一番失敗しても大丈夫なのは、背景だな。森だし、とりあえず緑に塗っておけばどうにかなりそうだ。……でも、面積が多いな。逆に工夫が必要だったりしたら、僕には難しくなってくるぞ……。


 僕は絵を凝視しながら思考を巡らせ、伊藤が話を始めるのを待った。しかし、


「…………」


 伊藤は一向に話を始めなかった。というか、始めようとしたタイミングで、なにかに気づいたかのように黙り込んでしまったんだ。


 伊藤の手には、ルールが書かれた紙が握られている。黒と黄色の警告色で書かれた、1枚の、ただの紙が。伊藤の視線は下に向かって、何かを見つめているようだった。しかし、伊藤の視線の先には何も無い。虚空を見詰めている、という状況だ。


 そして。


「伊藤……?」

「ど、どうした……?」


 違和感に気づいた皆が不安そうにそう声をかけると、伊藤はスっと顔をあげてこう言ったんだ。


「……この中で……話が得意な人って……どれくらい居る?」

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