第38話【信頼を得た後で】
「絵のアドバイスって……それは、伊藤に絵を教えてほしいってことだよな……?」
僕の不安に裏打ちされた言葉に答えたのは、やはりというべきか、悟さんだった。僕の忙しなく虚空を泳ぐ視線を、悟さんは一瞬で繋ぎ止めてみせる。ドッドッ、と存在感を増していた心臓の鼓動や腹の気持ち悪さが、スっと静まっていくのを感じる。はっ、はっ、と軽く切れてた呼吸も整い始め、僕は僅かな安堵に身を委ねる。
ああ。僕には仲間が居る。まだ正式な返事は出していないし、うん、まだやり直せる。不安は今、解消しよう。それが一番僕のためになる。
うるさい……というかウザイくらいに僕の脳を支配していた不安が溶けていくのを感じ、僕はようやく言葉を紡いだ。
「はい。絵に自信が無いから教えてほしいと……。まだ正式な返事は出していませんが……」
「ふむ、なるほどなぁ……」
僕は怒られるのを恐れる子供のように小声でそういうと、悟さんの様子を伺った。この中で最も警戒心が強いのは悟さんだと思うし、こういう時の決定権は大体悟さんに譲渡されるからだ。
僕は悟さんが何やら熟考しているのを確認すると、そっと周りに視線を向けて、周りの状況を確認する。
散らばった画材。描きかけのラフ。机の周りに集められた座布団にペットボトル。ついさっきまでそこにあったであろう活動の形跡に、僕は再び安堵を覚える。
ああ、変わったのは僕の状況だけだ。不安に思ってるのも僕だけだ。
僕はどこまでも臆病で弱々しい胸の内を自覚しつつ、僕の周りにあるものを見て心を落ち着けていた。僕は無口な方ではあるけれど、沈黙に襲われると不安になってしまう。だから、外側が沈黙に包まれた時には、いつも以上に内側を満たそうとするんだ。
考えることをやめてはいけない。やめたら、僕が壊れてしまう。
僕は悟さんが口を開くまでの間、どこか脅迫めいた思いに駆られながら思考を巡らせていた。このゲームに関することから、同居人のこと、それから今日の夕飯まで。こういう時の頭の回転というのは凄まじいもので、数秒で1つの考え事を終えてしまう程度には、僕の脳はフル回転していた。
ああ、やっぱり危険なことをしてしまったのだろうか。僕が、また悪いものを連れてくるんだろうか――……。
「……んー、まあ良いんじゃね?」
「……え?」
「おう。だから、伊藤が良いなら良いんじゃね? ってことよ」
僕の不安と共に回転していた脳は、突如として贈られた悟さんの言葉で、逆方向に回転を始めた。
……まあ、良いんじゃね? 伊藤が良いなら……?
僕は、一瞬その言葉が理解できなかった。今まで熟考しすぎたせいで、逆に理解ができなかったんだ。
あっさり了承されると思わなかったから。僕の不安は8割当たるから。今までのこの3日間で、何度も地獄のような出来事を経験してきたから。
僕の不安は絶対に当たる。僕の行動は裏目に出る。
僕の無意識に植え付けられたその印象が、僕の理解を遅らせたのかもしれない。
「あ……い、良いんですか……?」
「おう。教えるのは伊藤だしな」
「……まあ、そうですけど……」
悟さんはどこまでもあっさりと、その凛々しい顔立ちを変えることなくそう言った。さっきの熟考は一体何だったのか。ついそう思ってしまうくらいには、悟さんはあっさりと僕にゴーサインを出した。
ふと伊藤に視線をやると、伊藤はその可愛らしい瞳に純朴な光を乗せて、
「ある程度余裕ができたら、別にいいよ」
とフォローを入れてくる。
…………。
…………いやいや。待て待て待て。
おかしいだろ。普通に。冷静に考えてさ。顔も知らないやつからの依頼なんて、怪しさ満点だし、怖いだろ!
「……な、なんで何も疑わないんですか!? なんか……怪しいとか無いんですか!?」
「は?」
「だって、伊藤を脅して絵を描かせるとか……なんか、あるかもしれないじゃないですか!!」
僕は自分が持ってきた依頼だったのに、まるで初めてその依頼を聞いたかのような焦りMAXの声を上げてしまった。静かな部屋に僕の感情たっぷりの声が大きくこだまし、皆の視線が僕に集まるのを感じる。
ああ、悪い目立ち方だ。なんだコイツって思われる系の声の上げ方だ。やっちまった。バカか僕は。僕が持ってきた依頼だっただろ。
僕がそう焦り散らかしていると、悟さんはキョトンとしたような表情を浮かべ、後頭部を軽くかいた。
「……いや、まあソイツは怪しいかもしれんが……誠が信用したなら良いんじゃねえの?」
悟さんは至極当然というようにそう言うと、チラリと他の同居人たちに視線を向けた。
「ここには色んな奴がいるし……正直、名前うろ覚えのやつもいるけどよ……。誠は、よく人を見てる。自覚は無いかもしれないが、まあ、俺は誠の見る目を信用するぜ」
「…………」
言葉を失った。
悟さんからそんな言葉が出てくるなんて、全く思いもしなかったから。……いや、それ以上に、僕を見る周りの目が……なんだか前までと違かったから。
皆の視線を、肌で感じる。部屋の空気感を、心で感じる。僕を見つめる視線の全てに、少しだけ信頼が宿っている気がした。
無関心。観察。親しみ。信頼。僕に注がれる視線は全て違うけれど、でも「こいつなら大丈夫だろう」というとても嬉しい評価が、そこには確かに乗っている気がした。悟さんに「信頼している」と言われたからそんな気がするだけかもしれないけど、でも、僕はそれを信じたくなった。
「不安から逃げたい」「損をしたくない」
僕の行動原理は大体がそんなダメダメなものだけど、でも、その結果信頼を勝ち得たというのなら、それはとても嬉しいことだ。
何より、ずっと尊敬していた悟さんに信頼された……その事実が、何よりも嬉しい。
「じゃあ、余裕ができたら教えに行くってことで……そう返答するけど大丈夫? 伊藤」
「うん……! 大丈夫だよ」
「わかった。ありがとう」
僕は淡々とそう確認をとると、踵を返して歩き出した。目的地はもちろん、あの男のところだ。山本に似ている、絵のアドバイスを頼んできた男。僕は僕の判断に自信を持てないことが多いけれど、他人に何か後押しされると歩み出せるようになるタイプのようだ。
――ああ。良かった、本当に……!!
僕は軽くなった足取りで、男の居るであろう部屋に向かって歩き出した。
……僕がこの行動を後悔するのは、まだ、もう少し先のことだ。
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