第34話【凡人こそ最強のサポーター?】

「大衆受け……? それって、多くの人に支持されるってことですよね……」

「ああそうだ。ビジネスの基本。ターゲット設定のために重要になる項目だ」


 悟さんの言葉を聞いた伊藤は、よく分からない、というような疑問を含んだ声音で即座にそう聞き返した。僕らの疑問を代弁するようなその声音は、僕らの胸中を代弁するような質問を伴って、伊藤と僕らの距離を少しずつ近づける。


 天才の伊藤ですら、わかっていない。


 僕らはその事実に「じゃあ自分がわからないのも無理ないか」なんて甘えきった思考を沸き立たせ、悟さんがその問いに答えるのを待った。


 ……しかし、僕らはそこで、ようやく気づいた。……少なくとも僕は、ちゃんと気づけた。


 …………待てよ。伊藤は美術の天才ではあるが、それ以外においては僕らと同じじゃないか、と。


 僕は危うく危険な領域に踏み込みそうになった思考をなんとか操縦すると、緊張が過ぎ去った時のように息をついた。……危なかった。もし、伊藤が「美術に関係する全てにおいて天才である」と勘違いしていたら、たぶん、この先僕らは伊藤を過大評価し続けてしまう。


 伊藤はあくまで「美術」の天才であり、それを認めさせる「発信力」や「営業力」においては、恐らく僕らと大差ないんだ。


 僕は改めて伊藤への評価を構築し直すと、今度は悟さんに視線を向けた。


 ……さて、そうなってくると、僕らの悟さんへの評価も、どこかズレているかもしれないぞ……。


 僕がそう思い視線を向けていると、悟さんはその堂々とした態度のまま、低く、重い声をその場に轟かせた。


「いいか伊藤。世の中の、少なくとも半分以上は、凡人という枠に分類される。どれだけ頭の良い理論や素晴らしい技術を持っていても、世間に評価されるかは凡人次第なところがある」


 悟さんのその声音は、経験と実績に裏付けされたような、すごく、説得力のある言葉の集合だった。


「学会では有名なAさんになるのか、世界的偉人のAさんになるかは、正直、世間的評価がマストで必要だ」

「……そ、それは……わかってますよ……」


 堂々とした態度の悟さんに対し、伊藤はどこか怯えたような、少し生気を削がれたような、弱々しい態度に戻ってきている。背は若干だが、確かに丸まり、視線は大人しいが宙を彷徨っている。悟さんの視線は伊藤の眉間あたりに注がれ、まるで、伊藤はそれから逃れているかのようだった。


「でも……僕は、結局まだ答えを貰ってませんよ……。凡人の価値……『凡人の視点』が、一体何の役に立つんですか……?」


 伊藤は弱気ながらも、自身の意思を伝達するように、小さくハッキリとした発音でそう言った。悟さんは、その伊藤の発言に何かの確証を得たのか、軽く頷くとまた言葉を紡ぎ始めた。


「ああ。凡人の視点が何の役に立つかだな。それはズバリ、お前の作品の欠点を見つけることに役立つ」

「……僕の、欠点……」

「そ。お前の作品をウケる作品に押し上げる、非常に重要なプロセスだ」


 悟さんのその自信を伴った発言に、僕は、ああ、と納得した。


 僕ら凡人の価値は、「凡人の視点」を持っていることである。……最初は訳がわからなかったけれど、悟さんの発言を聞いた今なら、よくわかる。


 凡人の視点……それは、要はお客様アンケートみたいなものだ。食品でも、本でも、どんな店でも……お客様の意見は尊重しなければやっていけないし、基本的には、その要望には応えたいと思うはずだ。


 伊藤の場合は美術だから、全部が全部要望通りにってわけにはいかないけど、でも、意見を一切聞かないでやって行けるほど、今の伊藤には実力が無い。


 とても偉そうなことを言ってる僕は、きっと「最低」だとか「じゃあお前がやってみろよ」とか言われるんだろうけど、でも、僕の評価はだいぶ的を得てると思うんだ。

 


 ――未完成……?

 ――伊藤の絵には確かに……魅力が無かった。大衆を湧かせるような熱が、あるいは、イラストに籠る魂が。



 ふと僕の頭に浮かんだのは、昨日、僕が伊藤の絵を見た時の気持ちや、言葉。


 ……そう。伊藤は天才ではあるけれど、その絵の実力は……まだ未完成の発展途上だ。



 悟さんは続けた。



「絵画教室の先生が言ってたっていう、『君はこだわりすぎだ』っていうセリフ……。要は『高尚なものを作ろうとしすぎて、かえって不完全になっている』ってことだ。……たぶんな」

「……」


 伊藤は心当たりがあるかのように俯くと、僅かに拳を握りしめた。本当に、震度1くらいの震えを伴った伊藤は、その丸まった背中に寂しさや悲しみ、苛立ちといった、負の感情を乗せているように見えた。


 ――ああ。図星か。悔しいのか。


 僕はどこか既視感のあるそれに、本能レベルで同調する。


 そうか、そうか、悔しいんだな。自分の弱点を認めたくなくて、でもその通りだって……。


 自分が1番よくわかってるんだよな。



「俺は、伊藤の絵に足りないものは、他人にもっと理解させる『親切心』と、癖になって求めたくなる『ジャンキー感』だと思ってる」

「っ…………」


 

 ああ。これは、痛いぞ。



「高尚なものはそのうち描けるようになるが、親切心やジャンキー感は、意図的に作ろうと思わないと作り出せないんだぜ」

「意図、的に……」

「そ。意図的に」

 

 僕は伊藤の心情に思いを馳せつつ、悟さんの善意100%の暴力にも、覚えず身を震わせていた。


 ……ああ、怖い。可哀想な伊藤。無力な伊藤。正論と善意の暴力に殴られて、抵抗すらできない……最強の布陣。もうこうなった時僕らにできるのは、その痛みを、苦しみを受け入れるか……反発してその場から逃げ出すかの2つ。


 

 ――――誠はバカなんだから、もっと勉強しなさいよ。

 ――――努力のできない奴なんて、普通以下のクズだと言ってるだろう?

 


 ほら、もっと、もっと、努力しないと。



「っ……」



 ああ。嫌なことを思い出してしまった。もう、終わった、終わったことなのに。父親も母親も、べつに悪意を持って言ったわけじゃない。きっと、僕の為を思って、あえて厳しいことを言ったんだ。


 ――どうしてそんなこともできないの?

 ――夢を見るな。お前は平凡な人生しか歩めない。



 ……でも、僕はその言葉で…………。



「伊藤の可能性は認めるが、今は、その可能性に制限がかかってると思うんだよな。だから――……」



 悟さんは、あくまで優しく、親切に伊藤に言った。僕の頭には、両親が僕に向けて言った、深い傷のような記憶が蘇る。


 2人の声が、対照的に心に届いて、響く。

 

「俺らに、お前の才能を伸ばすのを手伝わせてはくれねえか?」 

――――才能なんか望むな。お前に、才能は無い。



 僕の心の深いところに、いつまでも刻み込まれた、嫌なそれ。たぶん、この先も僕が引きずっていく、僕の人格形成に影響を与えたそれ。

 


「っ……わかり、ました。……じゃあ……」


 そして、たぶん伊藤の心の深いところには、今、傷じゃなくて温もりが宿った。悟さんのとても優しい言葉が、想いが。傷を優しさに塗り替えていく。


 伊藤の心を成長させる。


「皆さん、僕の……僕らの作品を…………一緒に、創ってくれませんか……」



 ――ああ。羨ましいな。


 僕はどこか他人事の人間ドラマを傍で眺め、自身の心に潜っていった。僕は、僕と伊藤の違いは……もう、環境の違いなんだろうか。


 例えば、僕が悟さんのような人に出会えていたら……僕は、どんな天才になっただろう?


 僕は胸の内でそんなifストーリーを思い浮かべては、いや、そんなの無理だ、と心を落ち着かせた。


 

 これは、僕が天才になるまでの、たった1ヶ月のストーリー。たった3日目にして、僕の心は、大きく変化を遂げていた。

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