第33話【理論と実践】

「な、何言ってるんですか……悟さん……。そんなの、僕だってわかってますよ…………」


 伊藤が発したその戸惑いは、酷く冷徹な批判の意味を含んでいた。その下がりきった眉と小動物のような瞳には、今にも食らいつきそうな狂犬の光が垣間見える。鎖に繋がれた猛獣のような、それでいて魅力的な華のような……。


 それは、一言で表すならアベコベな……伊藤という人間性そのものだった。


 伊藤は、自身を批判する一般人悟さんを脅すような上目遣いで見つめると、少しだけ、苛立ったような声で反撃に出る。


「作品は……、見る人が居るからこそ完成するんです! 僕がっ……美大に行って画家を目指そうとしている僕が、そんな初歩的なことを知らないわけがないじゃないですか!!」


 どこかグラグラと安定しない伊藤の絶叫。この場において、最も影響力を持つけれど、でも、誰も理解できない意見。これが天才と凡人の違いだと言うのなら、それは、大きな間違いだと思う。


 だって――……


「いいや。お前はわかってない。後輩にもそういう奴、居るんだよなぁ。理屈はわかるけど実践が出来ないタイプ」


 だって、僕らにとっては悟さんの方が、天才に見えるし理解できるから。


 ああ、僕らはやはり誤解をしている。天才なんて、その場その場での暫定評価に過ぎない。いつも入れ替わって、争って……そうやって掴み取った上位席のことを、きっとひとは天才と呼ぶんだと思う。僕らはきっと、天才になれる可能性は秘めているけれど……ライバルには及ばなかった奴らの集合なんだ。


「伊藤、じゃあ俺がお前に授業してやる。営業職の俺が経験で培った……理屈じゃなく実践のお話だ」


 僕は、悟さんに視線を向けると、ああ、と心で吐息を漏らす。その吐息は、安堵というよりは理解や納得といった意味合いを含んでおり、僕はその気持ちを胸に思考を加速させていく。


 今まではふわっとしか形容できなかった悟さんの才能が……これから、形を伴っていくんだ……。


 僕は僅かに高まる期待感と、高鳴る胸の内を自覚しつつ、冷静にその場の分析を始めた――……。



♤♤♤



「よしっ、じゃあ伊藤。まずは俺の発言の意図を確認しておこうか」


 数分後。伊藤が広げた道具を全て片付けさせた悟さんは、伊藤と机を挟んで向かい合い、まず始めにそう切り出した。


 道具を無理やり片付けさせられた伊藤は不服そうな顔をしているが、その愛嬌のある癒し系の顔立ちも相まって、なんだか、ペットが不機嫌な時のような可愛らしさを覚えてしまう。


 たぶん、本人はそれに気づいていないだろうし、言ったら怒られることは確定だと思うので、僕はしっかり黙っておく。


 他の同居人たちも、伊藤や悟さんの周りに座り込み、その緊急授業に耳を傾けている。まあ、他に僕らがやれることは無いし、いつも兄貴分みたいなポジションの悟さんが授業をするとなったら、つい聞き入ってしまうのは当然だろう。


 もちろん、僕も気になっていた。


 悟さんの授業の様子や内容だけでなく、それに対する伊藤の反応も。だって、これは言ってしまえば、絶対王政から脱却するための革命だ。現在の国の支配者と、新勢力……ただの、一般人。こんなの、歴史の世界ならとても重要な瞬間だし、そうでなくとも貴重な対話になる。どうして、とかじゃない。理屈抜きに……ワクワクするしかないだろう。


 僕はちょっと野次馬チックな他人事の思考で2人を見ると、ちょうど黙り込んでいた伊藤が話し出すところだった。


「……悟さんは、『あれこれ悩んでるけど、作品を見るのは凡人なんだから、細かいことは気にしなくていい』って言いたいんですよね。……絵画教室の先生も『君はこだわりすぎだ』って言ってました。理解は、できますよ」


 ようやく絞り出した伊藤の声には、形容しがたい苦労と、そして努力の跡が滲み出ていた。グッ……と悔しさや本音を押し殺すように上げたその声は、僕にとってはとても既視感のある……どこか、嫌な声だった。


 伊藤の表情もかなり暗い。暗いというか、黒いというか……。どこかちっぽけな意地やプライドを内に秘めていそうな、面従腹背といった感じの表情だ。


 ……伊藤って、意外と頑固な気質なのかもな。職人肌と言えばそれまでだけど、正直、今回ばかりは裏目に出ている気がする。


「うーん、まあ半分あってるんだけどな……ちょっと、そこの解釈も違うから、合わせておくな」


 悟さんは、伊藤の発言に対し、若干唸るような声を上げた後にそう言い、ほんの僅かに身を乗り出した。


「あのな、伊藤。俺は別に『こだわりを捨てろ』とも『さっさと原案出せ』とも言いたいわけじゃないんだわ。つーか、伊藤は俺らのホープなわけだから、もう丁重に囲いこんでおもてなししたいわけ」

「はぁ……」


 悟さんの普段と変わらないテキトーな感じの物言いは、伊藤にはあまり響いていないようだった。ため息のような、自転車の空気が抜けるような音が響き、伊藤の感情はそこには感じられなかった。


 しかし、


「まあ、まだあんまピンと来ないだろうからな。先に結論言うと……伊藤さ、俺らの価値に気づいてないべ」

「皆さんの、価値……?」

「そう。俺らの価値」



 悟さんはその授業をやめなかった。



 悟さんは、どこか驚いたような表情を覗かせる伊藤と視線を通わせて、革命の言葉を紡いでいく。

 

「天才のお前やギフトからしたらさ……俺らってカスみてえな存在に思えるかもしれねえけどさ、それって大間違いなわけ」

「……別にそんな酷いこと思ってないですよ……」

「だが現に、俺らに仕事振ってないだろ?」

「それは、まあ……」


 悟さんは伊藤と一対一の話し合いを、いや、授業を繰り広げる。悟さんが先生。伊藤が生徒。まだ右も左も分からない生徒を教え導く教師のように……悟さんは伊藤に問いかける。


「なあ伊藤。俺ら凡人の価値ってなんだと思う? 2、3個挙げてみてくれ」 

「…………周りから浮かない。仲間が多い。何にでもなれる」


 その問いかけに対し即座に返答した伊藤は、一瞬だけ……本当に一瞬だけ、懐かしむような羨むような、本当に微妙な顔をした。口角が上がったかと思えば、眉も目も痛みを訴えるようにキリキリと歪む。


 ……それは、伊藤の本心だろうか。


 まるで用意されていたような回答を並べる伊藤を見て、僕はどこかが引っかかっていた。


「……とりあえず3個上げたんですが……悟さんは、別意見なんですか……?」


 その僅かな寂寥の念をかき消すように、伊藤は悟さんにそう問いかける。綺麗な銀色の瞳が捉えた悟さんは、一体どのように答えるのだろう。


 僕らがまるで示し合わせたかのように悟さんを見ると、悟さんは数瞬の沈黙を用いてもったいぶった後に、凛とした明るい声でこう言った。


「俺ら凡人の価値……それは、『凡人の視点』を持っていることだ」

「「「…………」」」

「……は…………?」



 何言ってるんだ、この人は。どっかの政治家の構文じゃないんだから。それともあれかな。言い間違いかな? 言い間違いだとしたら何だろう……。いや、思いつかないぞ……?



 たぶん、僕含めた全員が、少なからず困惑したと思う。どことなく珍妙な空気が部屋に滞留していくのを感じて、僕は文字通り首を傾げた。


 悟さんの才能が見られると思って期待したけど……ちょっと、買い被りだったのかな……?

 

 僕らが不思議そうな顔をして悟さんを見ていると、伊藤が疲れきったような声で、はあ、とため息をつくのが聞こえた気がした。


 うん。やっぱり伊藤もわかってないじゃん。


 僕は仲間を見つけたような気持ちでそう思うと、悟さんが語る持論を待った。悟さんは、付け加えるような形で言葉を述べた。


「凡人の視点……それすなわち、『大衆受け』を目指すために必要な、成功のための最短ルートだ」


 その言葉は、僕ら伸び悩む凡人にとっても、そして評価されない天才にとっても、非常に大切で価値のある……理論じゃなく実践の言葉だった。

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