黒い家

江渡由太郎

黒い家

 十二月に引っ越して三日目。

 深夜の二時、沙耶は背筋を這い上がるような寒気で目を覚ました。


 ――誰かが歩いている。


 新居のリビングの床は古い木材で、軋む音が独特だ。しかし、今聞こえたのはそれではない。

 “ざり…ざり…”砕石の砂利を踏むような乾いた音。


 家族は既に寝ている。ペットもいない。

 息を殺して耳を澄ますと、ふと微かな気配が寝室の入り口に泡が立つように現れた。


「……ねぇ……」


 沙耶は心臓が止まりそうになった。誰かが湿った声で囁く。しかしその声は、家族の誰の声とも違った。

 低く掠れ、どこか濁った――聞いた瞬間に、脳が拒絶する恐怖と不快感を併せ持った声だった。


 布団から出られずにいると、急に照明が“パチン”と点いた。

 寝室の電気はリモコン式で、誰かがスイッチを押さなければ点かない。


 得体の知れない誰かがこの部屋にいる――。


 光の中で、部屋の壁に奇妙な“染み”が見えた。黒い水が垂れたように、床までべっとり伸びている。

 それは昨日までは確かにそこにはなかったものだ。


 胸の奥がギュッと締め付けられ、視界が暗くなった。





 翌朝、沙耶の夫である遼平も異変に気づいた。

「最近、胸が苦しいんだ。妙な夢ばかり見るし、夜になると誰かが布団を引っ張るんだよ」


 その日から、家全体が狂い始めた。


 玄関扉のドアノブをガチャガチャと動かす音。

 コンロを使っていないのに、突然火花が上がる。

 冷蔵庫が開けっぱなしになっている。

 風もないのにカーテンが震え続ける。

 閉まっている寝室の扉がガタガタと音を立てて震え続ける。

 観葉植物が次々と干からびて枯れる。

 排水溝からなのか部屋中で硫黄の様な異臭がする。

 誰もいない部屋で歩く音や話し声がする。

 夜中になると家中の水道から黒い水が滲み出す。


 まるで“何か”が家の中を徘徊し、沙耶たち家族の生活を掻き乱している。


 水道管の業者を呼んでも、電気業者を呼んでも異常は見つからない。


 ただひとつ、業者が帰り際に言った。


「この家、変な……気配がしますね。特に、屋根裏。あまり上がらない方がいいですよ……」





 三週間が過ぎると、遼平の容体はさらに悪化した。

 病院でも原因がわからず、医師は過労かストレスだとしか言わなかった。


 しかし沙耶には分かっていた。

 原因は――この家だ。


 ある晩、遼平を看病しながら天井を見上げると、天井板の隙間から“目”が覗いていた。


 ぎょろりと丸く、黄色く濁った目。

 まばたきひとつしない、獣のような生気のない目。それは山羊の目に似ていた。


 沙耶は叫び声を飲み込んだ。


 天井の目は、ゆっくりと笑った。縦に割れた瞳孔で沙耶を見つめていた。





 翌日、沙耶は決心した。

 屋根裏を確認しなければ、この“何か”に家族が殺される。


 椅子を並べ、震える手で天井の板を押し上げると、黴の湿った臭気がどっと流れ出た。


 懐中電灯を照らした瞬間、沙耶は理解した。


 屋根裏一面に、黒い染みが蠢いていた。

 壁、梁、床。全てが黒い水に覆われ、まるで生き物のように脈動している。


 その中央に――人影。


 髪が長く、顔は黒い液体に溶けて形が定まっていない。

 ただ、山羊の様な黄色い目だけがこちらを見ていた。


 “ざり…ざり…”


 あの足音が、すぐ目の前から響いた。


「あんたたち……でていって……」


 声は男又は女の悲鳴とも呻きともつかないが、はっきり聞こえた。


「この家は……呪われている……わたしが死んだ日から……ずっと……」


 沙耶は恐怖のあまり涙を流しながら屋根裏を閉めた。


 しかし――遅かった。





 その夜、遼平は急激に悪化した。

 呼吸が浅くなり、皮膚は土のような色に変わっていった。


 救急車を呼ぼうとしたが、スマホが圏外になる。

 固定電話も繋がらない。


 部屋の壁に“黒い影”が走り回り、床が波打つ。

 家全体が、生き物のように脈動している。


 遼平が痙攣し口からは泡を吹き、白目をむいた瞬間――。

 天井が“バンッ”と弾け、あの黄色い目が飛び込んできた。


「でていけ……でていけ……でていけ!!」


 叫び声とともに、黒い水が津波のように沙耶と遼平を飲み込んだ。


 視界が真っ黒になり、家全体が崩れ落ちるような音が響いた。





 翌朝、近所の住民が異変に気付いた。

 玄関は開いているのに、家の中は真っ黒に焼け焦げたような跡。

 しかし、火災の痕跡は一切ない。


 住人の姿だけが、跡形もなく消えていた。


 業者が調査に訪れたが、屋根裏は空っぽで何も見つからなかった。


 ただ、天井に指で書いたような黒い跡――。

 “でていけ”だけが残されていた。


 その黒い家は今も空き家のままだ。

 夜になると、屋根裏から“ざり…ざり…”という足音が聞こえるという。


 そして誰も、近づこうとはしない。



 ――(完)――

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黒い家 江渡由太郎 @hiroy

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