第3話 暗いトンネルの向こう側

 東欧の小国、スラヴィア共和国の冬は、重く、鉛色に沈んでいた。

 首都空港に降り立った瞬間、ケイコは思わずコートの襟をかき合わせた。寒さのせいではない。空気に満ちる「圧」が、これまで訪れたどの国よりも密度が高かったからだ。

 ケイコは右耳の後ろにある人工内耳の送信コイルを、ニット帽の上からそっと押さえた。

 外気は氷点下五度。だが、彼女の二の腕や背中の産毛は、寒さによる鳥肌とは異なる、ジリジリとした静電気のような不快感を捉えていた。

(……焦げ付いた匂いがする)

 もちろん、嗅覚の話ではない。

 この国の空気に漂う、切迫した焦燥感と、何か巨大なものが軋むような振動。それは、東西の勢力がぶつかり合う地政学的な摩擦熱そのものだった。

 今回の任務は、スラヴィア共和国を南北に分断する「黒鉄(くろがね)山脈」を貫く、全長五十キロに及ぶ長距離トンネルおよび高速鉄道建設プロジェクトの受注だ。

 日本からは、鉄道車両最大手の「帝都重工」と、トンネル掘削の雄「大和建設」がタッグを組んで参入している。

「ケイコ君、状況は芳しくない」

 大使館の公用車の中で、外務省欧州局のベテラン、真田室長が渋い顔でタブレットを示した。

「ライバルのC国連合が、破格の安値を提示してきた。しかも、工期は日本の半分だ。彼らは『友好の証』として、労働者の半分を自国から連れてくると言っている」

 人工内耳が拾う真田の声は、デジタル処理されたクリアな音質だが、その背後にある「諦め」に近い溜息までは再現されない。

 しかし、ケイコの肌は感じていた。車内に充満する帝都重工や大和建設の幹部たちの、針のように鋭いピリピリとした苛立ちを。

「技術力なら負けません。あの地盤は複雑だ。安普請な工法では十年も持たない」

 大和建設の技術部長が唸るように言った。

「だが、先方の首相は『早急な成果』を求めている。次の選挙までに開通の目処を立てたいんだ」

 車窓の外、雪混じりの霧の中に、古びた路面電車が走っているのが見えた。

 車体は錆びつき、塗装も剥げているが、市民たちはその到着を辛抱強く待っている。

 ケイコはその路面電車から、奇妙なほど「温かい」波長を感じた。

 都市全体が寒々しい緊張感に包まれている中で、その電車だけが、まるで暖炉のような穏やかなパルスを発している。

(……あれは、何?)

 ケイコの視線に気づいた現地ガイドが言った。

「ああ、『ヴォルグ社』の路面電車ですね。我が国の唯一の鉄道メーカーです。古いですが、故障してもすぐに直してくれる。市民の足ですよ」


 首相官邸でのプレゼンテーションは、予想通り難航した。

 ヤコフ首相は、元軍人のような角張った顔立ちの男だった。

「日本の技術が世界一なのは知っている。だが、我々が欲しいのはトンネルと鉄道だけではない。未来に続く産業だ」

 首相は太い指で机を叩いた。

「我が国にはヴォルグ社がある。今回のプロジェクトに彼らを参画させ、技術移転を行い、将来的には彼らを国際的なメーカーに育てたい。それが条件だ」

 帝都重工の担当者が困惑した顔を見せた。

「首相、申し上げにくいのですが……ヴォルグ社は路面電車の製造と修理が専門の、従業員三百人規模の町工場です。高速鉄道の、しかも山岳トンネル区間の施工管理など、荷が重すぎます」

「だからこそ、育てろと言っている!」

 首相の声が荒げられた。

 人工内耳のリミッターが作動し、音が瞬断する。

 ケイコは、音のない世界の中で、首相から発せられる波動を読んだ。

 それは「強欲」ではなかった。

 切実な「危機感」だ。

 C国連合案を受け入れれば、トンネルと鉄道はできる。だが、メンテナンスも運用もすべて彼らに握られ、ヴォルグ社のような地場産業は淘汰されるだろう。首相はそれを恐れている。

「……ヴォルグ社の社長、アンドレイ氏は何と?」

 真田室長が尋ねた。

 首相の顔が一瞬、曇った。

「彼は……頑固だ。『大国の草刈り場になるくらいなら、今のままでいい』と、参入を渋っている。だが、私が説得する。君たちは、彼らが受け入れるプランを出せ」


 翌日、日本代表団はヴォルグ社の工場を視察することになった。

 首都郊外、雪原の中に建つレンガ造りの工場。

 煙突からは白い煙が立ち上り、中からは金属を叩く音がリズミカルに響いてくる。

 出迎えたのは、油にまみれた作業服を着た巨漢、アンドレイ社長だった。

 白髪混じりの髭、丸太のような腕。その瞳は、日本から来たエリートたちを、明らかに敵視していた。

「見ての通りだ。ハイテクなロボットもなければ、クリーンルームもない。あん人たちが期待するようなものは、ここにはないよ」

 アンドレイ社長は、握手もそこそこに背を向けた。

 工場内は、驚くほど整理整頓されていた。

 古い旋盤、使い込まれた工具。床には油の染み一つない。

 帝都重工のエンジニアたちが、「ほう」と感心した声を漏らす。技術者には分かるのだ。ここには、道具を愛し、仕事を誇る職人の魂があることが。

 だが、アンドレイ社長の背中から発せられる「拒絶」のオーラは凄まじかった。

 ケイコの肌に、チクチクとした痛みが走る。

 それは、獲物を狙う猛獣の殺気ではない。

 巣穴を守ろうとする、手負いの熊の警戒心だ。

(彼は、怖がっている……?)

 何を?

 技術を盗まれることを? 会社を乗っ取られることを?

 いや、もっと根源的な恐怖だ。

 視察の途中、工場の奥から子供たちの笑い声が聞こえてきた。

 金属音と火花が散る工場の敷地内に、不釣り合いなほど明るい声。

「なんだ、あそこは?」

 大和建設の幹部が眉をひそめる。「危険じゃないか」

 アンドレイ社長が立ち止まり、鋭い視線を投げつけた。

「社内託児所だ。我が社では、親が働いている間、子供たちを預かっている。昼休みには一緒に飯を食う。それがヴォルグのやり方だ」

 社長はそれだけ言うと、再び歩き出した。

 だが、ケイコはその場に立ち尽くした。

 空気が、変わったのだ。

 社長が託児所の方を見た一瞬。

 あの刺すような拒絶のオーラが消え、代わりに、とろけるような甘く、温かい波動が広がった。まるで、冷え切った身体をお湯に浸した時のような、絶対的な安らぎ。

(……そうか)

 ケイコは理解した。

 首相は「産業の育成」というマクロな視点でヴォルグ社を参入させたい。

 日本側は「技術力とコスト」というビジネスの視点でパートナーを探している。

 だが、アンドレイ社長が見ているのは、もっとミクロで、もっと大切なもの。

 彼は、会社が取り込まれることで、この「家族」の未来が壊れることを恐れているのだ。

 巨大プロジェクトの歯車として組み込まれ、効率主義の名の下に、この託児所や、社員との温かい関係が切り捨てられることを。

 C国だろうが日本だろうが、彼にとっては等しく「家族を壊しに来る侵略者」でしかない。


 その夜、日本代表団の作戦会議は紛糾した。

「ヴォルグ社を組み込むのはリスクが高すぎる。彼らの生産能力では、精度の高いボルトの供給も怪しい」

「しかし、首相の絶対条件だ。形だけでも彼らを下請けに入れて……」

「アンドレイ社長のあの態度だ。形だけの提携なんて見抜かれるぞ」

 会議室の空気は、タバコの煙と焦燥感で淀んでいた。

 ケイコは、末席で議事録を取りながら、先ほどの託児所の光景を思い出していた。

 窓越しに見えた、保母に抱きつく子供たち。そして、仕事の手を止めて窓の外から手を振る若い女性工員。

 その時、ケイコの肌が感じたのは、日本の最新鋭工場では感じたことのない、太く、力強い「生命の循環」だった。

 ケイコは手を挙げた。

「事務官、なにか?」

 真田室長が怪訝な顔をする。

「ヴォルグ社は、ただの町工場ではありません。あれは、一つの『生態系』です」

 ケイコは静かに、しかしはっきりと言った。

「彼らが守りたいのは、技術ではなく、社員とその家族の生活そのものです。アンドレイ社長は、私たちが持ち込む『効率』が、その生態系を破壊すると感じています」

「だから、どうしろと言うんだ? ビジネスなんだぞ」

 帝都重工の担当者が苛立ちを隠さずに言う。

「ビジネスだからこそです。トンネルを掘り、線路を敷いて終わりではありません。その後、五十年、百年にわたって鉄道を動かすのは誰ですか?」

 ケイコは全員の顔を見渡した。

「ヴォルグ社の社員たちであり、あの託児所にいる子供たちです。私たちが提示すべきは、建設のプランではなく、彼らが主役となる『未来の設計図』です」

 室長が、黙って先を促した。

「明日の再交渉、私に少し時間をください。アンドレイ社長の警戒心を解く鍵は、スペック表の中にはありません」


 翌日、再びヴォルグ社を訪れた日本代表団。

 アンドレイ社長は、昨日以上に険しい顔で待ち構えていた。

「帰ってくれ。うちは今のままでいい。大国の論理に付き合う暇はない」

 真田室長が一歩前に出た。「社長、その前にお見せしたいものがあります」

 ケイコがタブレットを操作し、プロジェクターに映像を投影した。

 映し出されたのは、日本の鉄道車両工場の映像……ではなかった。

 それは、帝都重工が日本国内で運営している、企業内保育園の映像だった。

 さらに、大和建設が施工したトンネル工事現場で、地元の高校生たちを招いて行われた見学会の様子。

 引退したベテラン技術者が、若い社員にマンツーマンで指導する「師弟制度」の風景。

 アンドレイ社長の眉が動いた。

「……これは?」

 ケイコが進み出た。

「私たちは、ただトンネルを掘りに来たのではありません。あなた方の『家族』を、次の世代へと繋ぐお手伝いをしに来たのです」

 ケイコは、自分の右耳の人工内耳を指差した。

「私には、自然の耳がありません。機械の助けを借りて音を聞いています。でも、だからこそ聞こえる音があります」

 彼女は社長の目を真っ直ぐに見つめた。

「昨日、あなたの工場で感じました。機械の音の向こう側にある、子供たちの声と、彼らを守ろうとするあなたの温かい鼓動を」

 社長が息を飲んだ。

 ケイコの言葉は、通訳を介しているにもかかわらず、彼の心の深い部分に直接響いているようだった。

「社長、あなたは恐れている。会社が大きくなることで、大切な社員が巨大なシステムの部品になってしまうことを」

 ケイコは一歩近づいた。

「日本案は、C国案のように労働者を多数連れてきたりしません。現場の主役は、ヴォルグ社の皆さんです。私たちのエンジニアは、あなた方の社員と同じ釜の飯を食い、技術を伝え、泥にまみれます」

 画面が切り替わる。

 そこに映し出されたのは、ヴォルグ社の敷地内に新設される「鉄道技術研修センター」と、その隣に併設された、現在の三倍の規模を持つ「森の保育園」の完成予想図だった。

「トンネル工事の五年間、私たちはあなた方の社員を、世界最高水準のメンテナンス技師に育て上げます。そして、この保育園で育った子供たちが大人になる頃、彼らがこの国の鉄道を支えるリーダーになる。……そんな未来を、一緒に作りませんか」

 静寂が工場を支配した。

 遠くで、金属を叩く音が止まった。

 アンドレイ社長の固く握りしめられた拳が、ゆっくりと解かれていくのを、ケイコは見た。

 社長から発せられていた、あの刺すような冷たい拒絶の霧が晴れていく。

 代わりに溢れ出したのは、熱い、燃えるような「情熱」と、堪えきれない「嗚咽」に似た振動だった。

「……うちの社員は、頑固だぞ」

 社長の声が震えた。「昼飯のシチューの味に文句を言うし、休憩時間にはチェスをさせろとうるさい」

 真田室長が微笑んだ。

「日本のエンジニアも、将棋が好きでしてね。いい勝負になるでしょう」

 アンドレイ社長は、大きな手で目元を拭うと、真田室長に、そしてケイコに、力強く手を差し出した。

「いいだろう。手を組もう。ただし、子供たちの昼寝の時間は、工事の騒音を抑えること。それが条件だ」

「善処します」

 大和建設の部長が、真剣な顔で即答した。


 調印式は、雪解けの春に行われた。

 スラヴィア共和国の歴史に残る大型プロジェクト。その調印書の隅には、ヴォルグ社の社判もしっかりと押されていた。

 帰国の日。

 空港に向かうケイコたちの車を、一台の古い路面電車が追いかけてきた。

 ヴォルグ社の特別車両だ。

 窓から、アンドレイ社長と、作業服を着た社員たち、そして保育園の子供たちが身を乗り出して手を振っている。

 ケイコは窓を開けた。

 春の風が吹き込んでくる。

 まだ冷たいけれど、そこにはもう、あの時の焦げ付くような焦燥感はなかった。

 代わりに聞こえてくるのは、未来への期待と、国境を超えた友情が奏でる、柔らかくも力強いハーモニー。

 

 ケイコは人工内耳のスイッチを切り、目を閉じた。

 音のない世界。

 けれど、風に乗って届く彼らの「想い」は、どんな交響曲よりも雄弁に、ケイコの全身を震わせていた。

 産毛が、くすぐったいように揺れている。

 それは、これから始まる長いトンネル工事の向こう側で、新しい時代が産声を上げた合図のように感じられた。

「……いい音ですね」

 ケイコが呟くと、隣の真田室長が不思議そうに聞いた。

「スイッチ、切ってるんじゃないのか?」

「ええ。だからこそ、よく聞こえるんです」

 ケイコは微笑み、遠ざかる路面電車に、いつまでも手を振り続けた。

(了)


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