第2話 緑色の残響
一
中東の小国、アル・カマル王国の空気は、乾いた紙やすりのようだった。
空港に降り立った瞬間、ケイコは肌を露出している腕や首筋に、微細な砂粒が静電気を帯びてへばりつくのを感じた。
ケイコは右耳の後ろにある人工内耳の送信コイルの位置を確かめ、サングラスをかけ直した。砂漠特有の強烈な日差しと乾燥。補聴器や人工内耳といった精密機械にとっては過酷な環境だが、今のケイコにとって最も「うるさい」のは、音ではなかった。
(この国は、悲鳴を上げているわね)
ケイコは迎えの公用車に乗り込みながら、車窓の外を流れる枯れかけた街路樹に目をやった。
三十七歳になったケイコの感覚は、さらに進化していた。
かつて、音のない世界で培った、微弱な電磁波の揺らぎを感じる「産毛で空気を読む」能力。それは今、対象を「植物」にまで拡張し、時間軸さえも超えるようになっていた。
植物は、動かない。その場に根を張り、周囲の空気、温度、湿度、そして人間が発する微弱な生体電流やフェロモンの変化を、その葉脈や樹皮に記憶する。
ケイコがそれに気づいたのは、自宅の観葉植物の葉を拭いていた時だった。ふと指先が葉に触れた瞬間、数時間前に部屋を訪れた母の「安堵」の感情が、まるで録画映像のように流れ込んできたのだ。
それ以来、ケイコにとって植物は、その場所で過去数時間に起きた出来事や雰囲気を再生する「天然の記憶装置」となっていた。
今回の任務は、アル・カマル王国との「海水淡水化プラントおよび高度灌漑システム」の技術供与契約だ。
資源枯渇と旱魃に苦しむこの国にとって、日本の技術は命綱のはずだった。しかし、交渉は難航していた。
相手は、国王の弟であり、実質的な執政権を握るハリム殿下。
彼は伝統保守派の筆頭であり、「異教徒の技術が聖なる砂漠を汚す」として、頑なに契約を拒んでいた。
「ケイコさん、今回も頼みますよ。ハリム殿下は、前回のガリエフ大使以上に手強い。言葉の裏を読むだけじゃ足りないかもしれない」
隣に座る外務省の中堅、相馬参事官が疲れた顔で言った。
ケイコは無言で頷いた。
人工内耳が拾う相馬の声には、焦燥のノイズが混じっている。だが、それ以上に車内の革シートに染み付いた、前の乗客——おそらく現地の大使館員だろう——の「諦め」の波動が、ケイコの肌をちくちくと刺していた。
二
王宮の会議室は、冷房が効きすぎていて寒気がするほどだった。
巨大な大理石のテーブルを挟み、日本代表団とアル・カマル王国の重鎮たちが対峙している。
その中央に、ハリム殿下が座っていた。
純白のトーブに身を包み、頭にはクーフィーヤ。鷹のように鋭い眼光は、決して日本側の誰とも目を合わせようとしない。
「我が国の伝統的な地下水路(カナート)は、三千年の歴史を持つ。ポンプで無理やり水を汲み上げ、科学薬品で濾過した水など、神の恵みとは言えん」
通訳を介して伝えられる言葉は、拒絶そのものだった。
人工内耳が拾う殿下の声のトーンは一定で、抑揚がない。訓練された為政者の声だ。
ケイコの「産毛レーダー」もまた、殿下から発せられる強固な拒絶の壁を感じ取っていた。まるで分厚い鉛の壁がそこにあり、何も通さないような圧迫感。
だが、違和感があった。
殿下の指先が、テーブルの上に置かれた小さなグラスの水滴を、何度も何度もなぞっているのだ。
(……迷っている?)
言葉は強硬だ。態度も冷徹。だが、その指先の動きだけが、微かなリズムの乱れを刻んでいる。
相馬参事官が、日本の技術がいかに環境負荷が低いかを必死に説明している。しかし、殿下は聞く耳を持たない様子で、窓の外を眺めた。
そこには、王宮自慢の中庭が広がっているはずだが、今年の異常気象で多くの植生が枯死しかけていると聞いていた。
「休憩だ。祈りの時間がある」
殿下が唐突に立ち上がり、議論を打ち切った。
日本側の団員たちが、深いため息をつく。
「ダメか……。これ以上押しても、心証を悪くするだけだな」
団長が頭を抱える。
ケイコはそっと席を立ち、殿下が出て行った扉の方へ歩み寄った。
扉の脇には、背丈ほどの高さがある大きな観葉植物——ベンジャミンの鉢植えが置かれていた。
よく手入れされているが、葉の先が茶色く変色し、水不足のストレスに耐えているのが見て取れる。
ケイコは周囲を見回した。誰も彼女を見ていない。
彼女は手袋を外し、そっとベンジャミンの幹に素手を添えた。
——ザッ。
ノイズが走る。
人工内耳の音ではない。指先から神経を伝って脳に直接響く、触覚の記憶データだ。
時間のレイヤーが巻き戻される。
一時間前。二時間前。
この植物は、ここでじっと「見て」いた。
会議が始まる三十分前。この部屋には、ハリム殿下ともう一人、誰かがいた。
鋭い痛み。
ケイコの眉間に皺が寄る。
植物が記憶していたのは、激しい「叱責」の波動だった。
『弱腰は見せるな! お前が国を売れば、王家は終わりだ!』
声が聞こえるわけではない。だが、空気を震わせた怒号の振動が、植物の細胞液に恐怖として刻まれている。
相手は……おそらく、先代国王の重臣であり、現在は宗教指導者の長老だ。
そして、その怒号を浴びせられていたハリム殿下の波動。
それは「拒絶」ではなかった。
(……渇き。そして、哀しみ)
殿下は、このベンジャミンの葉に触れていたのだ。会議の直前、長老が出て行った後、震える手でこの木に触れ、何かを祈っていた。
その残留思念が、ケイコの指先を通して流れ込んでくる。
『守りたい。でも、守り方がわからない』
殿下の心は、伝統への固執ではなく、守るべきものが枯れていくことへの絶望に支配されていた。彼が本当に守りたいのは「威厳」や「教義」ではない。もっと具体的で、個人的な「何か」だ。
ケイコはベンジャミンの葉の裏に、微かな水滴の跡を見つけた。
スプリンクラーの水ではない。塩分を含んだ、涙の跡だ。
殿下は、この木に泣いてすがっていたのだ。
三
休憩時間が終わり、会議が再開された。
空気はさらに重くなっていた。日本側は条件の緩和を提示しようと資料を準備していたが、ケイコは手元のタブレットで素早く文章を打ち込み、団長のモニターに割り込ませた。
『技術的なスペックの話は止めてください。殿下が懸念しているのは宗教的な禁忌ではなく、個人的な"庭"の喪失です。話題を、中庭の再生に変えてください』
団長が驚いてケイコを見た。
ケイコは真剣な眼差しで頷き返した。
団長は一瞬迷ったが、長年の付き合いがあるケイコの「耳」と「勘」を信頼していた。彼は準備していた価格表を閉じ、パンフレットの最後のページを開いた。
「殿下。契約の話に戻る前に、少し個人的な話をさせていただけますか。……あの中庭についてです」
ハリム殿下の眉がぴくりと動いた。
「あの中庭には、亡き母君が愛されたという、希少な『砂漠の薔薇』が植えられていると伺いました。しかし、近年の地下水位の低下で、根が傷んでいるのではありませんか?」
殿下の鉄仮面のような表情に、亀裂が入った。
図星だ。
ケイコが感じ取った「守りたいもの」の正体。それは長老たちが言うような国家の威信ではなく、亡き母との思い出が詰まった庭園だったのだ。
「……なぜ、それを」
殿下の声が、初めて揺らいだ。
「弊社の灌漑システムには、特別なセンサーがあります」団長はケイコの助言通りに畳み掛けた。「植物一本一本の微細な『声』を聞き取り、必要な水分だけを、必要な瞬間に根に届ける技術です。大規模なプラントは、国を変えてしまうかもしれない。しかし、この技術なら、殿下の大切な薔薇を、一本も枯らすことなく守り抜けます」
殿下の視線が泳いだ。
彼の中で、長老たちの教えと、母への想いが激しく衝突している。
その葛藤が、強烈な電気信号となって空間に放電され、ケイコの腕の産毛を逆立てた。
痛いほどの緊張感。
だが、あと一押しが足りない。殿下はまだ、長老の影に怯えている。
その時、窓の外から風が吹き込み、会議室のカーテンが大きく揺れた。
扉の横のベンジャミンが、ざわざわと葉を揺らす。
ケイコは無意識に、人工内耳のボリュームを下げた。音を消し、感覚の世界に没入する。
植物たちが歌っている。
乾いた風に吹かれながら、それでも生きようとする微かなパルス。
ケイコは席を立ち、水の入ったピッチャーを持って殿下の元へ歩み寄った。
本来なら、事務官ごときが許される行為ではない。
警備員が動こうとするのを、殿下が手で制した。
ケイコは殿下のグラスに水を注ぐふりをして、微かな声で、しかしはっきりと日本語で言った。
通訳を通さない、魂の会話。
「木々は、あなたの涙を覚えています」
殿下の動きが止まった。
「先ほど、あのベンジャミンに触れました。あなたがどれほど深く、この国の緑を、お母様の庭を愛しているか。その悲しみが、あの子の中に残っていました」
殿下がケイコを見上げた。サングラス越しの瞳が、大きく見開かれているのが分かる。
「私たちの技術は、大地を支配するためのものではありません。植物たちの声を聞き、彼らが生き延びる手助けをするためのものです。……あなたと同じです」
数秒の沈黙。
それは、会議室の時計の音が聞こえるほど長い時間だった。
やがて、殿下から発せられていた鉛のような拒絶のオーラが、ふっと霧散した。
代わりに広がったのは、凪のような静寂と、深い安堵の波長だった。
「……通訳」
殿下が静かに言った。
「日本側の提案にある『個別灌漑制御システム』について、詳細を聞きたい。特に、古木への適用例についてだ」
四
調印式は、予定より三日早く行われた。
当初の「大規模淡水化プラント」の計画は縮小されたが、代わりに「王立植物園再生プロジェクト」を中心とした、より高度で長期的な技術提携が結ばれた。これは日本にとっても、砂漠緑化技術の実証実験として莫大な価値がある契約だった。
最終日の夕方。
ケイコは、再生が決まった王宮の中庭に招かれた。
夕日が砂漠を黄金色に染め、わずかに涼しくなった風が吹き抜ける。
ハリム殿下が、一本の枯れかけた低木の前で待っていた。
「君が言った通りだった」
殿下は日本語で言った。留学経験があることを隠していたのだ。
「この木は、母が亡くなる直前に植えたものだ。長老たちは『水不足の折、枯れるのも神の意志』と言った。だが、私は諦めきれなかった」
殿下は、足元に設置されたばかりの日本製のドリップチューブを見つめた。
センサーが土壌の湿度を感知し、一滴の水が、正確に根元へと落ちる。
「君には、不思議な力があるそうだな。大臣から聞いたよ。耳が聞こえない代わりに、もっと深い音が聞こえると」
「ただの、勘です」
ケイコは微笑んで、人工内耳の髪を直した。「でも、植物はおしゃべりなんです。人間よりもずっと、正直に感情を記録していますから」
殿下は笑った。その笑顔からは、初めて会った時の威圧感は消え失せていた。
「ならば、これからも我が国の木々の声を聞いてやってほしい。彼らがまた、昔のように歌い出すまで」
殿下が差し出した手を、ケイコは握り返した。
温かく、乾燥した掌。
そこからは、未来への希望と、ケイコへの純粋な信頼の電流が流れていた。それはどんな外交辞令よりも確かな、契約の証だった。
五
帰国する機内。
ケイコは人工内耳を外し、アイマスクをしてシートに深く沈み込んだ。
ゴォーッというエンジンの振動だけが、骨伝導で微かに響く。
完全な静寂。
しかし、ケイコの右手には、まだあの庭の感覚が残っていた。
——ありがとう。
最後に触れた「砂漠の薔薇」の葉が伝えてくれた、微弱だがはっきりとした生命のパルス。
それは言葉にはならない、世界共通の「音」だった。
ケイコは自分の腕の産毛をそっと撫でた。
ノイズキャンセルの向こう側には、まだ誰も知らない、豊かな沈黙の言葉が溢れている。
CAが飲み物を配るカートの振動が近づいてくる。
ケイコはゆっくりと目を開け、再び人工内耳のスイッチを入れた。
カチッ。
世界に音が戻る。
「コーヒーをいただけますか?」
ケイコの声は、以前よりも少しだけ、明るく響いた。
(了)
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