第4話 砂礫の祈りと、見えざる光の回廊

​一 闇の中の反響

​ アル・カマル王国の夜は、深海のように濃密な闇に包まれていた。

 首都近郊に設けられた、王室専用の迎賓館。その一室で、ケイコは静かに目を閉じ、自身の感覚を研ぎ澄ませていた。

 人工内耳のプロセッサは外されている。音のない世界。

 以前であれば、それはただの「無」だった。だが今は違う。

 ケイコはゆっくりと息を吐き、意識を肌の表面、産毛の一本一本からさらに外側へと拡散させるイメージを持った。

 人間は誰しも、神経活動に伴う微弱な生体電流を発している。通常、それは体内に留まるものだが、長年「感覚の代償」として皮膚感覚を極限まで進化させてきたケイコの体は、微細な電磁波を周囲に放射し、それが物体に当たって跳ね返ってくる「反射波」を感じ取ることができるようになっていた。

 イルカやコウモリのエコーロケーションに近い。だが、彼女の場合は音波ではなく、電磁的な場の歪みとしてそれを知覚する。

 完全な闇の中、ケイコの脳内に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。

 右前方、三メートル。重厚なマホガニーのテーブル。

 左後方、二メートル。革張りのソファ。

 そして、部屋の隅にある観葉植物の有機的な揺らぎ。

 彼女は目を開けることなく、迷いのない足取りで部屋を横切り、テーブルの上の水差しを手に取ってグラスに注いだ。一滴もこぼすことはない。

 

(見える……。音よりも確かに、世界の形が)

​ この能力は、真の暗闇でこそ真価を発揮する。視覚情報というノイズがない分、電磁的な「触覚」が鋭敏になるからだ。

 水を一口飲み、喉を潤す。

 今回の任務は、これまでの灌漑事業の成功を受けた、さらなる大型契約の締結。表向きは「高度セキュリティシステムの輸出」と「重要施設への防災技術供与」。

 だが、その裏にはもっと切実で、血なまぐさい目的が隠されていた。

 ――テロ対策。

 中東全域で勢力を拡大しつつある国際的な過激派組織『砂の刃(サイフ・アル・ラマル)』。彼らは、急速な近代化と世俗化を進めるアル・カマル王国、とりわけその改革の旗手であるハリム殿下を目の敵にしていた。

 今回の技術供与は、日本の顔認証技術や群衆行動解析AIを導入し、テロリストの侵入を未然に防ぐための防波堤を作ることにあった。

 しかし、技術だけで人の心は守れないことを、ケイコは誰よりも知っていた。


​二 熱砂の裏取引

​ 翌日、王宮の執務室。

 窓の外には、かつてケイコたちが関わったプロジェクトによって再生した緑豊かな庭園が広がっていた。スプリンクラーが虹を作り、乾いた風に湿り気を与えている。

 ハリム殿下は、以前よりも精悍さを増していた。白いトーブの裾を揺らし、彼は満足げに契約書にサインをした。

「ケイコ殿。貴国との絆がこうして深まることを、アッラーに感謝する」

 通訳を介さず、殿下は流暢な日本語で語りかける。

「殿下のご決断に、敬意を表します。このセキュリティシステムは、王国の平和を守る盾となるでしょう」

 ケイコが答えると、殿下の表情がふっと曇った。

 人工内耳を通して聞こえる彼の声は穏やかだが、ケイコの肌が感じる「気配」には、ざらついたノイズが混じっている。

「……盾、か。だが、盾が必要になるということ自体、我が国が病んでいる証拠かもしれん」

 殿下は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

「改革には痛みが伴う。古い教えに固執する者たちにとって、私は裏切り者だ。『砂の刃』は、貧困にあえぐ地方の若者を巧みに取り込んでいる。彼らにとって、この緑の庭園さえも、富める者の傲慢にしか見えぬのかもしれん」

 ケイコの肌に、殿下の深い憂慮が伝播してくる。それは恐怖というより、守るべき民と対立しなければならない悲哀だった。

「殿下。システムはあくまで道具です。使い手が心を持てば、それは監視の檻ではなく、人々を守る傘になります」

 ケイコの言葉に、殿下は弱く微笑んだ。

「君の言葉は、いつも砂漠の井戸のように澄んでいるな。……さて、明日は国際会議場での調印式だ。各国の要人も招いている。警備の指揮は、すでに君たちのシステムと王室警護隊が連携して行っているはずだ」

「はい。万全を期します」

​ だが、その「万全」という言葉の裏で、ケイコの直感——いや、第六感は、かすかな、しかし不穏な波長を捉え始めていた。

 王宮の分厚い壁の向こう、遠く離れた街の雑踏から漂ってくるような、焦げ臭い電気信号。

 それは、憎悪というよりも、もっと切羽詰まった、張り詰めた弓のような緊張感だった。


​三 緑の記憶、灰色の殺意

​ 調印式の会場となる「アル・カマル国際会議場」は、近代イスラム建築の粋を集めた巨大なドーム状の施設だった。

 式典を翌日に控え、会場は最終の設営準備に追われていた。

 ケイコは、日本の技術チームによるセンサー設置の最終確認という名目で、会場を訪れていた。

 広大なホール。高い天井。

 空調の音が、人工内耳には「ゴー」という低い唸りとして聞こえる。

 だが、ケイコが気にしていたのは音ではない。

 ホールに入った瞬間、彼女は首筋に冷たい針を刺されたような感覚に襲われた。

(……何かが、通り過ぎた)

 今はもういない。だが、ほんの少し前まで、ここに「異物」が存在していた。

 ケイコは警備主任に目配せをして、一人でホールの奥へと歩を進めた。

 来賓席の近く。巨大なシュロチク(観音竹)の鉢植えが置かれている。

 ケイコはその前に立ち止まった。

 周囲に人がいないことを確認し、人工内耳のスイッチを切る。静寂が訪れる。

 彼女は手袋を外し、震えるような感覚のある葉に、そっと素手を添えた。

 

 ――ザザッ。

 

 視界が明滅する。植物の導管を流れる水分が記録した、過去の波動が流れ込んでくる。

 三時間前。

 作業員の服を着た、三人の男。

 彼らの心臓の鼓動が、痛いほど速い。

 シュロチクは記憶していた。彼らが発する、強烈なアドレナリンと、脂汗の匂い。

 そして、何よりも強い「祈り」の念。

 

『神よ、我らの犠牲を慈悲深く受け入れたまえ』

『これは聖戦だ。ハリムの堕落から、この国を浄化するのだ』

 

 憎しみではない。純粋すぎるほどの使命感。そして、その奥底にある、泣き出したくなるような恐怖。

 彼らはプロの殺し屋ではない。

 ただの若者だ。何かに追いつめられ、救いを求めて武器を取った、素人の若者たち。

 ケイコの指先が、彼らの行動をトレースする。

 彼らはシュロチクの鉢の底、装飾用の石の下に、何かを埋め込んだ。

 プラスチック爆薬。金属探知機には反応しにくい、最新のものだ。

 

(……ここね)

 

 ケイコは目を開けた。

 すぐに警備に通報すべきか?

 いや、今ここで爆発物処理班を呼べば、大騒ぎになる。式典は中止され、王国の威信は傷つく。ハリム殿下の立場は危うくなる。

 何より、実行犯たちはまだ近くにいるはずだ。彼らは爆発の瞬間を見届けるか、あるいは自らも会場内で死ぬつもりかもしれない。

 もし今、公に動けば、彼らはパニックを起こして遠隔操作で起爆するか、自爆テロに切り替える可能性がある。

 ケイコは、植物が伝えてくれたもう一つの情報に賭けることにした。

 彼らのリーダー格の男が、このシュロチクに触れた時のかすかな躊躇。

 そして、彼が仲間に漏らした、震える言葉の残響。

 

『これが終われば、妹は学校に行ける。組織が面倒を見てくれるはずだ』

 

 金のため。家族のため。

 彼らは狂信者ではない。貧しさという暴力に晒された、被害者なのだ。


​四 地下の対峙

​ ケイコは自身の能力を「アクティブ・モード」に切り替えた。

 体内の生体電流を高め、周囲へ波紋のように広げる。

 彼女は一般客を装い、関係者以外立ち入り禁止のバックヤードへと足を踏み入れた。

 会場の地下、空調機械室や電気設備がある迷路のようなエリア。

 薄暗い通路。

 ケイコの「視覚」が、闇の中に潜む不自然な熱源と生体反応を捉えた。

 三人。

 配管の陰にうずくまり、じっと時を待っている。

 彼らの呼吸は浅く、心拍数は異常に高い。

 ケイコは足音を忍ばせず、あえてコツコツとヒールを鳴らして近づいた。

 男たちが弾かれたように顔を上げる。手には起爆装置らしき端末と、粗末なナイフ。

「動くな!」

 リーダーらしき男が叫んだ。まだ二十代前半だろうか。瞳は充血し、極度の緊張で震えている。

 ケイコはゆっくりと立ち止まり、両手を広げて敵意がないことを示した。

「……シュロチクが、泣いていましたよ」

 静かな声だった。地下通路のコンクリート壁に、その声は柔らかく反響した。

「あなたたちが埋めたもの。そして、あなたたちが抱えているもの。すべて、あの子は覚えていました」

「な、何を言っている……!」

 男がナイフを構える。だが、ケイコは一歩も引かない。

 彼女はサングラスを外し、男の目を真っ直ぐに見据えた。

「妹さんのために、死ぬつもりですか?」

 男の動きが凍りついた。

「……なぜ、それを」

「聞こえるのです。あなたの心の声が」

 ケイコは一歩近づいた。男の仲間たちが動揺して顔を見合わせる。

「ハリム殿下を殺せば、一時的に組織から金が出るかもしれない。でも、その後はどうなります? 王国は混乱し、内戦になるかもしれない。そうなれば、妹さんが通うべき学校も、住むべき家も、すべて灰になります」

「うるさい! 俺たちにはこれしか道がないんだ! 畑は干上がり、仕事はない! 殿下は外国に媚びを売り、俺たちを見捨てた!」

 男の叫びは、悲痛な魂の叫びだった。

 ケイコの肌に、彼らの絶望が突き刺さる。乾いた大地で、何も生み出せない無力感。それが彼らを過激な教義へと走らせたのだ。

「見捨ててはいません」

 ケイコは毅然と言った。

「今回の契約は、ただのセキュリティシステムではありません。その裏には、あなたたちの故郷である地方部への、大規模な灌漑用送水路の建設プロジェクトが含まれています」

 男たちが息を呑んだ。それは初耳だったはずだ。過激派の幹部たちは、そんな事実は伏せて若者を煽動しているからだ。

「日本の技術で、地下水を枯渇させずに農地を蘇らせる。そのための測量と工事に、何千人もの人手が必要です。……爆弾を仕掛ける指ではなく、大地に水を引くための腕が、今すぐにでも必要なのです」


​五 命の水路

​「嘘だ……そんな夢みたいな話……」

「嘘ではありません。私は日本政府の代表団の一員です」

 ケイコは懐から、一枚の端末を取り出した。そこには、極秘扱いとなっている灌漑計画の完成予想図が表示されている。

「ここを見てください。あなたたちの村の近くにも、水路が引かれます。この工事の現場監督候補として、現地の人材を優先的に雇用する条項も盛り込まれています。給与は、組織が提示した手切れ金の比ではありません。しかも、それは一時的な金ではなく、一生続く仕事です」

 男の視線が、端末の画面に釘付けになる。

 青いライン。水。緑の農地。

 それは彼らが夢に見ても届かなかった光景だった。

「テロを起こせば、この計画はすべて白紙になります。外国の企業は撤退し、資金は凍結される。あなたがボタンを押せば、妹さんの未来ごと、この地図を燃やすことになるのです」

 男の手から、力が抜けていく。

 起爆装置を持った手が、激しく震えている。

「……でも、俺たちはもう後戻りできない。組織を裏切れば、殺される」

「逃げる必要はありません。あなたたちには、私の『警護』がつきます」

 ケイコはハッタリをかました。いや、ハッタリではない。彼女にはその交渉力がある。

「ハリム殿下に直接話をします。あなたたちを、テロリストとしてではなく、更生した『重要証人』として保護し、そのまま新規プロジェクトの第一期生として採用するように。……殿下は、そういう取引ができる方です。自分の庭の木一本の命さえ惜しむ方が、若者の未来を無下に踏みつぶすと思いますか?」

 

 長い沈黙が流れた。

 地下通路の淀んだ空気が、少しずつ動き始める。

 ケイコの肌が感じる「反射波」が変わった。

 尖った殺意の波形が消え、代わりに迷いと、そして微かな希望のゆらぎが生まれている。

 カラン……。

 男の手からナイフが滑り落ち、コンクリートの床に音を立てた。

 続いて、起爆装置がケイコに差し出された。

「……本当に、水は来るのか?」

 男の声は震えていたが、そこにはもう狂気はなかった。

「来ます。私が約束します」

 ケイコは起爆装置を受け取ると、しっかりと男の手を握りしめた。

 男の手は冷たく、そして硬かった。労働を知っている手だ。この手は、破壊のためではなく、創造のために使われるべきだ。

 ケイコは、生体電流を通じて、自身の温かさと確固たる意志を彼に流し込んだ。

「行きましょう。まずは、あのシュロチクに謝って、それから、殿下に会いに行きます」


​六 未来への種まき

​ 数時間後。

 国際会議場は厳重な警戒態勢のままだったが、爆発物は秘密裏に回収され、式典は何事もなく執り行われた。

 ハリム殿下と日本側代表による調印の瞬間、会場は万雷の拍手に包まれた。

 その舞台袖で、ケイコは三人の若者と共にモニターを見つめていた。彼らは今は拘束されているが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。

 殿下は、ケイコの「超法規的措置」の提案を、驚きと共に、しかし深く感謝して受け入れた。

『彼らを罰して殉教者にするよりも、彼らを生かして証言者にする。そして何より、彼らが作る緑の大地こそが、過激派への最大の反撃になる』

 そう語った殿下の目には、強い光が宿っていた。

​ 数ヶ月後。

 ケイコのもとに、アル・カマル王国から一通の動画メールが届いた。

 映っているのは、乾いた大地に新しく敷設された水路。そこから勢いよく水がほとばしる様子だ。

 作業服を着たあの時のリーダーの若者が、泥だらけの顔で笑いながら、カメラに向かって手を振っている。その後ろには、教科書を抱えた少女――彼の妹だろう――が、はにかみながら立っていた。

 背景には、植えられたばかりの苗木が並んでいる。

 

 ケイコは外務省の自席で、その動画を繰り返し再生した。

 人工内耳から聞こえる水の音。人々の歓声。

 そして、画面越しでも伝わってくるような、彼らの「生きる熱量」。

 ケイコはそっと目を閉じ、耳の後ろのプロセッサに触れた。

 

(聞こえるわ。あなたたちの植えた木々が、根を張り、大地と会話する音が)

 

 テロリストという名の被害者を生まないための、一番の特効薬。それは銃弾でも防爆壁でもなく、明日への確かな希望と、一滴の水なのだ。

 ケイコはデスクの上の小さなサボテンの鉢植えを撫でた。

 サボテンの棘が、チリチリと嬉しそうに彼女の指先を刺激した。

 世界はまだ騒がしい。

 けれど、そのノイズの向こう側に、確かな平和の脈動が聞こえ始めていた。

​(了)

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ノイズキャンセルの向こう側 白亜結晶 @makihiroshi

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