第3話 魔女の棲む団地②

「つまりは貯水槽ここが心臓です。“血”とは魔女にとってもっともポピュラーな触媒。団地の水道管が“血管”。その血に触れたり飲んだりした住民は……まあ、“取り込まれた”ってことですね」


 貯水槽の水面から乱反射する光が、スオウの横顔をほの白く染め上げる。屋上の風が流れるたび、水面の光はゆらりと揺れ、彼女の頬を淡く照らした。

 つくづく思う──人形のように端麗な顔の魔女だと。


「蛇口ひねっただけで魔女の回路の一部かよ。……出汁を飲まされた連中は本当に気の毒だ


「でも、すごく綺麗な顔をしてますよ、彼女」


 スオウは覗き込んだまま淡々と言う。

 繭の裂け目からのぞく少女の顔は、確かに整っていた。

 水に沈んだ頬は白く、まつ毛には細かな滴が並び、そのすぐ下──繭の隙間から、濡れた制服の襟元がほんのわずかに覗いていた。


 俺は背中からロングケースを降ろし、膝をついてロックを外す。金具が鳴るたび、空気が震えるようだった。


「美人の出汁なら飲めるってか。……まあ確かに、美人補正は入るけどよ」


外見至上主義ルッキズムってやつですね。失望しました、芹沢さん」


「おいおい、さすがにその流れは罠だろ」


 ロングケースを開けると、黒い金属――M4カービン銃が繭よりも先に羽化した。

 本来なら真っ先に掴むべきなんだろうが、俺はまず携帯を取り出す。


 カメラを起動し、貯水槽の魔女とスオウをひとつの画角に収める。


「じゃあ、いつも通り指差してくれ」


 俺の声に、スオウは頷くこともない。

 黒いコートの袖が揺れ、細い指が貯水槽の穴――そこに沈む繭へ、まっすぐ伸ばされる。

 その動きは、何度も繰り返してきた儀式のよう。


 この写真が、貯水槽の少女が魔女であることを示す正式な証拠になる。


 そして同時に、俺に付与された超法規的な処置──“殺人許可”の発動条件でもある。


 軽く触れただけのシャッター音が、やけに空虚に響いた。湿気を裂くような、薄っぺらな機械音。


 携帯をしまい、俺はM4カービン銃を握る。

 冷えた金属が掌へ吸い付き、重みがゆっくりと腕に沈む。まるで死そのものを持ち上げているみたいな。


 ──なのに、今はその重さすら慣れてしまった。


 いつからか、引き金を引くことが、テレビのリモコンを押すくらいに手軽に思えてしまう。

 その事実を認めるたび、胸の奥で何かがひどく軋む。


 照準を繭に合わせ、少女の額へと移動させる。白い肌は、陶器みたいに滑らかだった。


 額に咲かせた赤い花の数は、これで何本目なのだろうか。

 きっと覚えていたら、俺はとっくに壊れている。

 だから考えない。

 考えないようにして、ただ“職務”だけに向き合う。


「射撃準備よし。……特別条項、超越病者措置法の適応により、対象の処刑解放を実行する」


 いつも通りに引き金を引こうとした、その一瞬──


「芹沢さん。……殺すのは少しだけ待ってください」


 スオウの声が、風の音よりも小さく、けれど確実に俺の鼓膜を叩いた。


 俺は照準から目を離し、銃は構えたまま、ゆっくり彼女のほうを見る。


「珍しいな。お前がブレーキ踏むなんて」


 スオウは視線を落とし、繭のほうを静かに見つめていた。

 その横顔が、ほんのわずかに揺れているように見えた。


「私たち、彼女の名前どころか、何も知らない」


「それがどうした。俺たちの仕事は魔女を探して殺すだけだ。あとの身元調査は警察やらの仕事だろ」


 口にした瞬間、自分でも少し冷たすぎると感じた。

 だが、それが事実だった。


 スオウは小さく息を吸い、続けた。


「何というか、これまでとは違います。私たちは急に、彼女の“世界”に土足で踏み込んで──彼女が知る暇もないまま、その世界を壊そうとしている。それは、とても残酷だと思いませんか」


「……別に。これまでも暗殺じみたことはいくつもやってきただろ」


 言いながら、どこか胸がざらついた。


「それでも……相手の名前や素性までは、ちゃんと頭に入っていました。これではまるで──害虫駆除と変わらない」


 “害虫駆除”

 その言葉だけが、響いて残った。


「“処刑”らしくないって言いたいのか。しゃらくさいな」


 魔女の詭弁に付き合ってる暇はない──そう自分に言い聞かせてM4カービン銃の照準を覗き込みなおす。

 だが、視界の端でスオウがこれまで見たことのない不服そうな顔をあからさまに浮かべていて、指先がかすかに止まった。


 スオウがあんな表情をするのを、俺は一度も見たことがない。

 胸のどこかが、急に落ち着かなくなる。


 気づけば、銃口が重力に沿ってだらりと落ちていた。

 指先の力が抜けたわけじゃないのに、理由のわからない重さが腕にのしかかり、狙いは勝手に下がっていく。


「……わかったよ。この魔女が何者で、夢遊病の動機は何か、調べれば良いんだろ」


 諦めにも似た言葉を吐くと、スオウの表情がほんの少しだけ明るくなった。

 その変化は小さく、しかし確実だった。


「いいんですか」


 静かな声音。

 責めるでもなく、期待するでもなく、ただ確認するような言い方だった。


 急にこっ恥ずしくなって、後頭部が痒くなる。

 スオウに「ありがとう」なんて言われたら、多分もっと痒くなる。


「まあ……そのあたりを把握しておいた方が、報告書の空欄が埋まるからな。ゼロからの作文は苦手なもんで」


 俺はわざと淡々とした声で言いながら、どこか逃げるように視線をそらそうとした。

 だが、その途中でふいに目に入ったものに、心臓がひと拍遅れて跳ねる。


 スオウが──笑った。


 本当に一瞬。

 砂金の一粒が陽の光に触れたみたいに、見逃してしまいそうな、極めて小さな笑み。

 けれど確かに、彼女の口元が柔らかくほどけていた。


 初めて見た、スオウの表情だった。


 その微かな笑顔は、魔法よりも静かで、魔法よりも強くて、爪の先で心臓をそっと掻かれたみたいに、じわりと胸の奥に残って、


 そうか、スオウでも笑えるのか。


 それは、羨ましさという名の、少し鋭い痛みだった。


 いつからだろう。俺はもう、まともに笑うことすらできなくなった。


 けれどスオウは違う。

 彼女の中にはまだ、どこか眩しさが残っている。


 コンクリートで固められたこの屋上にぽつんと咲いた、ひとつの花みたいな笑顔。

 まだ生かされている魔女の傍で、そんなものを見せられた。


 今までに見たことがない、景色だった。

 魔女の笑みも、俺の心のどよめきも、すべてが初めてで、


 ──世界がほんの少し揺れた気がした。

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魔女狩りという業務について 山猫計 @yamaneko-k

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