第2話 魔女の棲む団地①

 湯気の立つ紙コップを口につけ、スオウはいつもの渋い顔を作っていた。


 団地を見上げると、くすんだクリーム色の外壁はどこまでも均質で、無数の部屋が同じ顔でこちらを見下ろしている。

 錆びた手すりが、風を受けて薄い金属音を鳴らし、細い悲鳴のようなその音が、団地の静けさに妙に似合っていた。


「……これ、何回飲んでもにがいですね」


 スオウは眉間に皺を寄せながら、しかし結局コーヒーをもう一口すすった。


「相変わらず、それをやらないと追えないのか」


 コーヒーが舌に沁みるたび、眉間の皺がどんどん増えていくのが分かる。


「“魔法残滓”の特有の甘みって……魔女の私でも、素のままだとノイズに紛れてしまうんです。……うわ、やっぱり苦っ」


「ブラックで舌の感度上げるって発想、よく思いついたな。コーヒー嫌いのくせに」


 スオウは恨めしそうな目で俺を見る。


「私の隣で抹茶クリームフラペチーノを啜ってる芹沢さんはサイコパスですか」


「糖分で頭の回転に加速かけてんだよ。これも仕事の一環だ。許せ」


「許せないですけど」


 ぶつぶつ言いながら歩き出したスオウは、団地の中庭の真ん中にある富士山型の滑り台に登り、コートのポケットに手を突っ込んだまま空を仰いで、暫くそこにいた。あまりにも静かで動かないものだから、ふいに、一羽のスズメが彼女の肩にちょこんと乗った。冬に備えて丸くふくらんだ、小さな小さな塊のようなスズメ。


「どうだー?」


 俺が下から問いかけると、スオウは片目だけこちらに向けて答えた。


「……一筋縄ではいかなそうですね、この案件」


 それからスオウは子どものようにすべり台をざぁっと滑り降り、そのまま俺のもとへ戻ってきた。


「そもそも、大勢の人間を同時に……しかも特定の人物だけを操る魔法なんて、ありえませんよ」


「ちんぷいぷいのぷい夢遊病になーれー、とはいかんか」


「そんな便利な真似ができるのは、きっと神様くらいです。魔法って、“自然法則の外側”に立っているだけで、素材自体は地球が生まれた時からある些細な概念の寄せ集めですから。神の奇跡とは程遠い、せいぜい洗練されたですよ」


「ただ、その技巧をロクでもない連中が振り回すんだから、やってらんないんだよな。どうして魔女は、よりによって犯罪ばかりに魔法を使うんだ?」


 その“技巧”が人を傷つける道具に変わる光景を俺はどれほど見てきたことか。


 だがスオウは一切答えず、無言で団地の四号棟へ足を踏み入れた。

 返答を拒否したのか、そもそも興味がないのか、それとも──言えないだけなのか。

 その背中は、どこまでも静かだった。


 掲示板の前で、スオウはぴたりと足を止めた。

 風が吹けばめくれそうなほど薄い紙が、何枚も重ねて貼られている。

 町内集会の告知、老人会の予定、ゴミ出しの分別表──どれも色褪せ、端が日焼けして反っていた。押しピンは赤茶け、周囲には小さな蜘蛛の巣の残骸。

 ただの生活の風景だ。だが、スオウはまるで石像のように微動だにしない。


「老人とゲートボールでもやりたくなったか?」


 俺が軽口を叩くと、スオウは紙から目を離さないまま答えた。


「その奥ですよ」


「……奥?」


 スオウは一歩、ゆっくり後ろに下がった。

 そして視線を掲示板から外し、団地の空間すべてを舐めるように見回し、スオウはほんの僅かに舌先で唇を湿らせた。

 品のいい、けれど獣めいた本能を感じさせる舌なめずり。魔法残滓を味わっている。


 その仕草に、空気が一段ひやりとした気がした。


「私たち、すでに魔女に食べられているようです」


 あまりにも自然なトーンだった。

 日常の延長線上のような声で、非日常をズバリと突きつけてくる。

 意味だけが遅れて胸に落ちてくる感覚に、頭の奥がじん、と痛んだ。


「……は?」


 返す言葉がそれしか浮かばない。

 喉の奥が突然乾いて、声が少しひっくり返った。


「哲学的だな……」


 何とか冗談めかしたが、笑えなかった。

 自分の声が一瞬だけわずかに震えたのを、スオウは気づいたかもしれない。


 スオウはゆっくりと瞬きを一つ。

 その静けさが、逆に不安を煽る。


「この団地そのものが、魔女です」


 周囲の空気がすっと冷えたように感じた。

 どこかでカラスが一声鳴く。

 俺たちを鼻で笑ったかのようだった。


「芹沢さん──


 スオウの声が、少しだけ硬い。


「……上?」


 見上げても、そこにあるのは剥げた塗装と、カビの繁殖した天井だけ。

 ただの古い団地なのに、妙に圧迫感がある。

 スオウの視線はそのさらに先──

 天井の向こうの“どこか”へ向けられていた。


「屋上にいますね」


 確信に満ちた声音。


「なら、““団地そのものが魔女”ってのはどういう意味なんだ?」


 自分でも驚くほど声が低くなっていた。

 少しの恐怖と、職務としての緊張が混ざり合う。


 スオウはゆっくりと俺のほうを向いた。

 瞳は相変わらず感情の色に乏しいくせに、その奥で何か確かなものが灯っていた。


「芹沢さん、一応確認なんですが、この団地で事情聴取に回った時、お茶とか出されていないですか?」


 階段室の前で彼女の声が不気味なほど澄んで響いた。


「いや別に」


 俺は軽く返したが、スオウの視線はその答えを慎重に拾い上げるように一瞬だけ揺れた。まるで些細なほころびを探す検疫官のようだ。


「ここの水道で手を洗ったりもしていませんか?」


 スオウは続けて問いを重ねる。淡々としているのに、どこか急かすような硬さがあった。


「あぁ。それもない」


 答えると、スオウはようやく小さく息を吐いた。その安堵は、ほんの一瞬で消えたが、それが逆に何かを警戒していたことを示しているようだった。


「なら、大丈夫です。芹沢さんは──夢の奴隷にならずに済む」


「……なんだよそれ」


 階段というのはどの階もまるでコピペしたみたいに同じような風景で、小さい頃、まだ数字を読むことができない俺は階層の標識を認識できないものだから、友達の住む団地に遊びに行った時には階段が永遠に続いているような気がして、怖かった。

 灰色の壁、くたびれた鉄の手すり、生活音が届いてこない静寂。──その全部が一つに溶けて、行き場を失った不安だけが胸に溜まる。


 スオウとともに階段を上がりながら、俺はふとそんなことを思い出す。

 コンクリートの段差を踏むたびに靴底が乾いた音を立て、その反響が狭い階段室で膨らんでいく。


 あの頃の感覚に近いものが、俺の中に渦巻く。

 団地が超常の存在に掌握されている、そんな感覚。

 空気の層のどこかが“ひっくり返っている”ような、言いようのない圧迫感が背中にまとわりついて離れない。


 最上階である八階のさらに上、屋上へと辿り着いた俺たちの目の前に広がったのは、まるで天空に浮く灰色の板。

 湿気を含んだ空が低く垂れ込め、団地の屋上はその雲海を支える巨大な石畳のように広がっていた。

 この街には団地より高い建物がない。

 だからこそ、この灰色の天面は“街の最上層”でありながら、どこか別世界の入口のように見えた。


 スオウは有無を言わさず、屋上に聳える貯水槽に向かった。

 綺麗とは言えないクリーム色の円柱は、風の中でじっと佇み、一人寂しく屋上に取り残されているみたいに見えてしまう。

 その表面には長年の雨に洗われた跡がひっそりと縦に走り、金属の脚はわずかに軋む音を立てた。


「芹沢さん、内側から蓋が固められていています。壊す許可をください」


 スオウが蓋に触れたまま振り返る。


 俺は形式的に右手を上げた。

 公務であるという証明のように、あるいはこれから起こる“異常”を正当化する儀式のように。


 蓋に添えたスオウの手から、火花のような黄色い粒子が、サブリミナルみたく刹那的に、ぱちりと弾けて消えた。

 ほんの一瞬の現象なのに、視界の隅にこびりつくような残光。


 丸い蓋は、長い封印から解放されたみたいに、重々しく唸りながら開いた。

 これは確か、鉄を酸化させる魔法だったか。


 その様子を見てつくづく、魔女の力は悪意に触れればどこまでも滑っていく危険な刃物だと、嫌でも思い知らされる。


「芹沢さん、ほら」


 まだ見えぬ貯水槽の中を、スオウが無言で指差す。

 その細い指先の先にある“何か”を想像した瞬間、背中を汗がひと筋、つーっと流れた。

 嫌な汗と、滲み出てくる気色の悪い好奇心に苛まれながら、俺は丸い穴の中へ、微かな光で淡く照らされたその深淵をそっと覗き込む。


「……最悪だな」


 この団地に住むすべての人を代表して、俺は言った。


 蜘蛛の巣ととろろを掛け合わせたような、ムラのある白の粘膜が張り付いて──

 その膜は静かに呼吸しているかのように、わずかに脈打っている。

 粘膜は中心にある楕円状の塊を支え、その塊こそが本体らしく、溜まった水に半ば沈み込みながら、ゆらりと輪郭を揺らしていた。

 光を反射して湿ったその質感は、どう見ても


 総じて、それは大きな繭であった。

 人間の技術でも、自然の産物でも、どちらにも分類できない不穏な生命体の繭。


 その側面には裂け目があって、中にあったのは一人の──眠っている少女の顔が、水面に沈んだまま時間を止められたように、静かにそこへ張り付いていた。


 スオウは言う──


「彼女がまごうことなき、この団地の魔女です」



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