第14話 絵本の話

 日が傾き始めていた。


 木漏れ日が赤みを帯びてきた。さっきまで白かった光が、今は橙色に染まっている。鳥の声が少なくなった。代わりに、虫の声が聞こえ始めた。夕暮れが近い。森の空気が冷たくなっていく。


 ネルフィアは少し静かになっていた。さっきまでの勢いがない。何か考え込んでいるような顔で歩いている。珍しいことだ。この少女が黙っているのは、出会ってからほとんど見たことがない。


「ねえ、エルフィ」


 やがて、口を開いた。いつもより低い声だった。


「魔王様って、どんな人だったの?」


 エルフィの足が止まりかけた。止まらなかった。止めなかった。歩き続けた。でも、一瞬、足が重くなった。


「……なぜ聞く」

「気になるから。あんた、魔王軍にいたんでしょ? 無銘の証、持ってたし」


 エルフィは答えなかった。答えられなかった。なんと言えばいい。あの方のことを、どう説明すればいい。


「あたしさ、魔王様の絵本で育ったんだ」


 ネルフィアが言った。声が少し明るくなった。自分の好きなものの話をする時の声。目が輝いている。


「絵本?」

「うん。城下町で売ってるやつ。『魔王陛下の物語』っていうの。知らない?」

「……知らない」

「そっか。あんた、街にいなかったもんね」


 絵本。そんなものがあるのか。五百年の間に、あの方の物語が絵本になったのか。子供たちが読む物語に。英雄譚のように。伝説のように。


「小さい頃から毎日見てたんだ。ボロボロになるまで見て、お母さんに新しいの買ってもらって、またボロボロになるまで見て。何回買い直したか分かんない」

「……そうか」

「お母さん、呆れてたよ。また買うの、って。でも買ってくれた。あたしがどれだけ好きか、知ってたから」


 ネルフィアの声が少し柔らかくなった。母親の話をする時の声。懐かしむような声。


「絵が綺麗なんだよ。魔王様が、すごくかっこよく描いてあるの。黒いマントを羽織って、玉座に座ってて。目が赤くて、角が大きくて、でも怖くないの。むしろ優しそうな顔してるの」


 エルフィは黙って歩いた。あの方の顔を思い出していた。確かに、怖い顔ではなかった。厳しい顔をすることはあった。怒ることもあった。でも、根底にあるのは優しさだった。それを知っている者は、もう少ない。


 絵本を描いた者は、あの方を見たことがあるのだろうか。それとも、伝聞だけで描いたのだろうか。どちらにせよ、あの方の本質を捉えている。優しさを。穏やかさを。民を思う心を。


「幹部の人たちも描いてあった」


 ネルフィアが続けた。


「強そうな魔族たち。五人いるの。魔王様の周りに立ってて、みんなかっこいいの。名前も書いてあるんだよ。ライザードとか、クリュセルナとか」


 ライザード。クリュセルナ。懐かしい名前だった。あいつらは今、どうしているのだろう。生きているのだろうか。死んだのだろうか。五百年、会っていない。消息も知らない。散り散りになった。あの日から。


「でもね、一番好きだったのは、戦争の場面じゃないんだ」

「……何だ」

「魔王様が、民の前に出てくる場面。年に一度、城の前に立って、みんなに手を振るの。絵本だから、本当かどうか分かんないけど。でも、その絵が好きだった。魔王様が笑ってるの」


 エルフィの胸が締め付けられた。


 覚えている。あの方は、民の前では笑っていた。普段は笑わない人だった。感情を表に出さない人だった。でも、民の前に立つ時だけは、穏やかな笑顔を見せていた。民を安心させるために。この国を守っていると示すために。


 あの笑顔が、絵本に残っているのか。五百年経っても、まだ。


「……笑っていた」


 エルフィは言った。小さな声で。ほとんど呟きのような声で。


「え?」


 ネルフィアが振り返った。目を丸くしている。


「知ってるの? 見たことあるの?」

「……昔」

「すごい! 本当に見たんだ! どんな感じだった? かっこよかった?」


 どんな感じだったか。覚えている。忘れられるわけがない。あの方の笑顔は、いつも胸に残っている。目を閉じれば、今でも見える。


 でも、言葉にならなかった。言葉にできなかった。


「……穏やかだった」


 それだけ言った。それ以上は言えなかった。


「穏やかかー。絵本の通りだね。あたし、あの笑顔が好きだったんだ。魔王様なのに、全然怖くないの。むしろ、守ってくれそうな感じ」


 守ってくれそう。そうだ。あの方は守ろうとしていた。民を。国を。この世界を。全てを。だから戦った。だから死んだ。


 しばらく無言で歩いた。


 ネルフィアは何か考えているようだった。口を開きかけて、閉じる。また開きかけて、また閉じる。何かを言いたいのだろう。でも、言葉を選んでいるのだろう。


「ねえ、エルフィ」


 やがて、口を開いた。


「あんた、魔王様に会ったことあるの?」


 エルフィは答えなかった。


 会ったことがあるどころではない。千年、傍にいた。誰よりも近くに。誰よりも長く。でも、それは言えない。言えるわけがない。


「……昔の話だ」

「昔って、いつ」

「……昔」

「また『昔』って」


 ネルフィアは溜息をついた。でも、追及はしなかった。空気を読んだのか。それとも、聞いてはいけないと感じたのか。


「まあいいや。いつか教えてね」

「……」

「約束だよ」

「……約束などしていない」

「今した」


 ネルフィアは笑った。いつもの明るい笑い。さっきまでの神妙な空気が消えた。切り替えが早い。この少女は、空気を読むのが上手いのか下手なのか、分からない。


 森が開けてきた。木々の間隔が広くなっている。空が見える。夕焼けが広がっている。赤と橙と紫が混じり合って、空を染めている。雲の縁が金色に輝いている。


「わあ、綺麗……」


 ネルフィアが足を止めた。空を見上げている。目が潤んでいるように見えた。感動しているのだろう。初めて見る景色なのかもしれない。城下町では、こんな広い空は見えなかっただろう。建物に囲まれて、空は狭かった。切り取られた空しか知らなかった。


 だから、こんなにも眩しそうに見つめているのだろう。


 エルフィも空を見上げた。


 綺麗だ。確かに綺麗だ。あの方と一緒に見た空と、同じ色だ。戦の合間、二人で空を見上げたことがある。何も言わなかった。ただ、同じ空を見ていた。


「ねえ、エルフィ」

「……何だ」

「魔王様も、こういう空、見てたのかな」


 見ていた。何度も見ていた。あの方は、よく空を見上げていた。何を思っていたのか、聞けなかった。聞く勇気がなかった。


「……見ていただろう」

「そっか。なんか、嬉しいな。魔王様と同じ空を見てるって思うと」


 ネルフィアは笑った。眩しい笑顔だった。純粋な笑顔だった。


 エルフィは何も言わなかった。言えることがなかった。


 この少女は、あの方を知らない。絵本でしか知らない。本当のあの方を、何も知らない。


 でも、それでいいのかもしれない。知らないからこそ、純粋に憧れられる。知らないからこそ、眩しい笑顔で空を見上げられる。


 知ってしまったら、きっと、こんな顔はできない。こんな笑顔は。


「……行くぞ」


 エルフィは言った。


「もう少しで、野宿する場所に着く」

「うん」


 ネルフィアは空を見上げたまま、歩き出した。時々振り返って、夕焼けを見ている。名残惜しそうに。何度も振り返る。まるで、この景色を目に焼き付けようとしているように。


 エルフィは前を向いて歩いた。


 あの方のいない空。五百年、一人で見てきた空。何度見ても、慣れることはなかった。


 今は、隣に誰かがいる。それだけで、少しだけ、景色が違って見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの方のいない空の下で moyu. @moyu_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ