第13話 少しだけ
森の道は続いていた。
木漏れ日が地面に模様を描いている。風が吹くたびに揺れる。木の葉が擦れ合う音がする。鳥の声が遠くから聞こえる。穏やかな森だった。魔物がいるとは思えないほど静かで、どこか眠たくなるような空気が漂っている。
ネルフィアは相変わらず喋っていた。さっきから一度も黙っていない。エルフィの隣を歩きながら、ずっと何かを話している。森のこと。木のこと。鳥のこと。自分のこと。脈絡もなく、次々と。
「ねえ、エルフィ。あたしさ、小さい頃から毎日剣振ってたんだ。朝起きて、剣振って、ご飯食べて、剣振って、寝る。それだけ。つまんない生活だったと思う?」
「……知らない」
「そう。でもね、あたしは楽しかった。強くなってるのが分かるから。でも、最近は伸び悩んでてさ。壁っていうの? 何やっても上手くならない。才能ないのかなって思ってた」
エルフィは黙って歩いた。足元の木の根を避けながら、前を見ている。ネルフィアの話を聞いてはいるが、返事はしなかった。
「そしたらあんたに会った。一瞬で負けた。悔しかった。でも、嬉しかった」
「……嬉しかった」
エルフィが呟くように繰り返した。
「うん。だって、まだ上があるってことでしょ。あんたみたいに強い人がいるってことは、あたしも強くなれるかもしれないってこと。だから、ついてきた。あんたに追いつきたいから」
単純な考え方だ。でも、悪くはない。真っ直ぐで、馬鹿正直で、どこか眩しい。
「……追いつけない」
エルフィは言った。事実を言った。圧倒的な差がある。追いつけるわけがない。この少女が死ぬまで修行しても、その差は埋まらない。
「うわ、自信満々」
「事実だ」
「でも、いつか勝つから」
「……無理だ」
「絶対勝つ」
「無理だ」
「勝つ」
「無理だ」
同じ言葉の応酬が続いた。ネルフィアは諦めない。エルフィも譲らない。押し問答。子供の口喧嘩のような、くだらないやり取り。
ネルフィアが笑った。声を上げて笑った。森に響くような、明るい笑い声だった。
「あはは! あんた、同じこと繰り返すの得意だね。もしかして、面白いと思ってる?」
「……思っていない」
「嘘だ。絶対面白がってる」
「……思っていない」
ネルフィアはまた笑った。楽しそうに。何がそんなに楽しいのか。エルフィには分からなかった。分からなかったが、嫌ではなかった。
しばらく歩いた。
ネルフィアは何か思いついたような顔をした。目が光っている。何かを言いたそうな顔。こういう顔をした時、大抵ろくなことを言わない。
「ねえ、あんたってさ。無表情だけど、実は優しいでしょ」
「……何の話だ」
「だって、あたしを連れてきてくれたし。今もこうして話聞いてくれてるし」
「聞いていない」
「聞いてるじゃん。返事してるし」
言い返せなかった。確かに返事をしている。聞いていなければ返事はできない。論理的に正しい。この少女は馬鹿に見えて、時々鋭いことを言う。
「ほら、黙った。図星でしょ」
「……違う」
「違わない。あんた、優しいんだよ。ただ、顔に出ないだけ」
エルフィは前を向いて歩いた。答えなかった。答えられなかった。
優しい。そう言われたのは久しぶりだった。最後に言われたのはいつだろう。覚えていない。いや、覚えている。あの方に言われた。昔。「お前は優しいな」と。何の脈絡もなく、突然言われた。あの方は笑っていた。珍しく笑っていた。何がおかしかったのか、聞けなかった。聞く勇気がなかった。
あの方。
また、思い出してしまった。何を見ても、何を聞いても、思い出してしまう。今でも、まだ。
「ねえ、エルフィ」
ネルフィアの声で我に返った。いつの間にか、足が止まりかけていた。
「なんであんた、そんなに強いの? 才能? 努力? 両方?」
エルフィは少し考えた。どう答えるべきか。
才能はあった。生まれつき、魔力の量が多かった。でも、それだけではない。長く生きてきた。あの方と共に戦った。数え切れないほどの戦場を駆けた。死にかけたことも一度や二度ではない。その積み重ねが今の強さだ。でも、そんな話はできない。
「……時間」
それだけ言った。
「時間?」
「長く生きた。それだけだ」
「どれくらい長く?」
「……長く」
「また『長く』って。答えになってないよ」
ネルフィアは首を傾げた。不満そうな顔。でも、深くは追及しなかった。そういうところは空気が読めるのかもしれない。聞いてはいけないことがあると、本能で分かっているのかもしれない。
「まあいいや。いつか教えてね」
「……教えない」
「え、なんで」
「……教えない」
「ケチ」
ネルフィアはまた笑った。怒っているわけではない。ただ、楽しんでいる。このやり取りを楽しんでいる。変わった子だ。本当に。
それから少し歩いた。
珍しくネルフィアは黙っていた。何か考えているのだろう。足元を見ながら歩いている。いつもの元気がない。
「ねえ、エルフィ」
やがて、口を開いた。さっきまでとは違う声。少しだけ低い。少しだけ静か。
「あたしさ、ずっと一人だったんだ。友達いなかったの。毎日剣振ってるだけだから。みんな、あたしのこと変だって言ってた」
「……そうか」
「だから、嬉しいんだ。あんたと一緒にいられて」
エルフィは何も言わなかった。言えることがなかった。
「あんたも一人だったでしょ」
ネルフィアがこちらを見た。真っ直ぐな目。見透かすような目。
「分かるよ。なんとなく」
笑った。でも、さっきまでの明るい笑いではなかった。少しだけ、寂しそうな笑いだった。一人でいることの寂しさを知っている者の笑いだった。
「一人って、つまんないよね。でも、今は二人だから」
エルフィは答えなかった。
一人。確かに一人だった。ずっと一人だった。あの方がいなくなってから。誰とも話さなかった。誰とも歩かなかった。谷の底で、ただ息をしていた。生きているのか死んでいるのか、分からないような日々を過ごしていた。
今は違う。隣にいる。この少女が。うるさくて、明るくて、真っ直ぐな少女が。
森の道が続いている。木漏れ日が揺れている。風が吹いている。
「あ、ほら見て! あの木、変な形してる!」
ネルフィアが指を差した。さっきの寂しそうな空気は消えていた。また元気になっている。切り替えが早い。若いからだろうか。それとも、そういう性格なのだろうか。
指の先を見た。確かに変な形の木だった。幹がねじれて、螺旋を描くように上に伸びている。何かの力が加わったのだろう。風か、魔力か、それとも別の何かか。
「なんでああなったんだろ。風? それとも魔力?」
「……知らない」
「あんた、本当に知らないこと多いね」
「……そうだな」
長く生きてきた。でも、知らないことの方が多い。世界は広い。知らないことだらけだ。それでいい。全てを知る必要はない。
「でもさ、知らないことがあるって、いいよね」
「……何がいいんだ」
「だって、一緒に調べられるじゃん。二人で」
エルフィは少しだけ、ネルフィアを見た。
この少女は何を言っているのだろう。知らないことがあるのがいい? 一緒に調べられる? 考えたこともなかった。知らないことは知らないまま、放っておいてきた。誰かと一緒に調べるなど、思いもしなかった。
でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
ネルフィアはまた話し始めた。今度は、幼い頃の話だった。広場で剣を振っていた話。近所の子供たちに変な目で見られた話。でも、気にしなかった話。喧嘩した話。勝った話。負けた話。
くだらない話だ。聞く価値もない。
でも、嫌ではなかった。
エルフィは黙って聞いていた。聞いていない振りをしていた。でも、聞いていた。ネルフィアの声が、森の空気に溶けていく。明るい声。楽しそうな声。
「——でね、そしたらその子が言ったの。『お前、変だな』って。だからあたしも言ったの。『お前の方が変だ』って。そしたら喧嘩になって——」
声が続く。途切れない。息継ぎも惜しいとばかりに、次から次へと言葉が溢れてくる。
「——結局、あたしが勝ったんだけどね。だって剣振ってるから、腕力はあるし。でも、それで余計に友達いなくなっちゃって。だから余計に剣振るしかなくて——」
エルフィは少しだけ、口の端を上げた。
自分でも気づかないほど、わずかに。本当にわずかに。笑っているわけではない。笑顔ではない。ただ、少しだけ。ほんの少しだけ。
「——って、え?」
ネルフィアが足を止めた。目を見開いた。指を差した。
「今、笑った?」
「……笑っていない」
「笑った! 絶対笑った! 口、上がってたよ!」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃない! 見たもん!」
ネルフィアの目が輝いていた。まるで宝物を見つけたかのように。まるで世紀の大発見をしたかのように。大げさだ。そこまで騒ぐことではない。
「やった! エルフィが笑った! 初めて見た! エルフィの笑顔!」
「……笑顔ではない」
「笑顔だった!」
ネルフィアは嬉しそうに跳ねた。本当に嬉しそうに。両手を挙げて、その場で回った。子供のように。無邪気に。馬鹿みたいに。
エルフィは前を向いた。歩き始めた。足を速めた。
「待ってよー! もう一回笑って!」
「……断る」
「えー、なんで」
「……笑っていないからだ」
「笑ってたのに!」
ネルフィアは慌ててついてきた。まだ何か言っている。聞こえない振りをした。聞こえている。全部聞こえている。でも、聞こえない振りをした。
森の道は続いていた。木漏れ日が揺れていた。風が吹いていた。
二人は歩き続けた。片方は喋り、片方は黙る。いつもと同じ。何も変わらない。
でも、何かが少しだけ、変わり始めていた。
口の端が、まだ少しだけ上がっていた。誰にも気づかれないほど、わずかに。でも、確かに。
少しだけ。ほんの少しだけ。
久しぶりに。
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