第8話 今の魔王
ギルドの中に戻った。
酒場は静まり返っていた。さっきまで騒いでいた冒険者たちが、息を潜めている。杯を持つ手が止まっている。会話が途切れている。誰もがこちらを見ている。だが、目を合わせようとしない。視線を逸らす。怯えている。壁が壊れた音がまだ耳に残っているのだろう。虫一匹のために壁を消し飛ばした光景が、まだ目に焼き付いているのだろう。
ベルグがカウンターの奥に入っていく。大きな背中。さっきまでの威厳は消えている。肩が少し落ちている。敗者の背中。でも、歩みに乱れはない。受付の女が慌てて立ち上がった。顔が青ざめている。さっきの光景を見ていたのだろう。手が震えている。
「ギ、ギルド長……」
「登録の手続きを進めろ。Fランクだ」
「は、はい……」
受付が書類を取り出した。手が震えていて、紙がかさかさと音を立てている。ペンを取る。インクを付ける。震える手で、何かを書き込んでいく。
エルフィはカウンターの前で待った。
背後でひそひそ話が聞こえる。声を潜めているが、聞こえている。
「Fランクだとよ……」
「あれがFランク? 冗談だろ」
「ギルド長を膝つかせたやつがFランクか」
「ランクなんて意味ねえよ、あれには」
「関わるなよ。目を合わせるな」
「分かってる。消されたくねえ」
受付が登録証を差し出した。薄い金属板。名前と、Fの文字が刻まれている。新品の輝き。傷一つない。まだ誰にも使われていない証。
「こ、こちらが登録証になります……」
受け取った。冷たい金属。軽い。無銘の証よりも、ずっと軽い。あちらは重かった。あの方から直接受け取った重み。責任の重み。信頼の重み。
ベルグがカウンターの向こうから見ていた。腕を組んでいる。さっきの動揺は消えている。だが、目の奥に何かが残っている。畏れ。敬意。そして、好奇心。知りたいのだろう。この女が何者なのか。なぜ無銘の証を持っているのか。なぜ今になって現れたのか。
「何か聞きたいことはあるか」
ベルグが言った。低い声。落ち着いた声。敗者の声ではない。ギルド長としての声に戻っている。
エルフィは少し考えた。
聞きたいことは、いくつかあった。この長い年月で何が変わったのか。魔族の地はどうなっているのか。あの方の死後、何が起きたのか。知りたいことは、山ほどあった。
だが、今は一つだけ。
「今の魔王は誰だ」
ベルグの眉が動いた。少し意外そうな顔をした。
「魔王……ですか」
「ああ」
ベルグは一瞬、間を置いた。何かを考えているようだった。この女が、なぜそれを聞くのか。無銘の証を持つ者が、なぜ今の魔王を知らないのか。
だが、深くは聞かなかった。
「ミゼルナ様です」
エルフィの時間が止まった。
ミゼルナ。
その名前を聞いた瞬間、記憶が蘇った。遠い昔の記憶。側近として戦っていた頃の記憶。
一般兵の中に、一人だけ光る者がいた。他の兵とは違う目をしていた。野心ではない。媚びでもない。ただ純粋に、強くなりたいという渇望。それだけを宿した目。まだ若かった。百にも満たなかっただろう。
エルフィはその兵を引き抜いた。直接育てた。魔法を教え、戦い方を教え、生き方を教えた。幹部候補として、手塩にかけて育てた。朝から晩まで、付きっきりで。
ミゼルナは優秀だった。教えたことを吸収し、瞬く間に成長した。いつしか、幹部に匹敵する力を持つようになるだろうと。褐色の肌に汗を光らせ、必死に魔法陣を展開していた姿を覚えている。
だが、問題があった。
ミゼルナはエルフィに執着した。師を慕う気持ちを超えた、何か歪んだもの。崇拝。狂信。依存。エルフィの言葉を一言一句覚え、エルフィの仕草を真似し、エルフィの隣にいることだけを望んだ。訓練が終わっても離れなかった。食事の時も傍にいた。眠る時も近くにいた。
重かった。息苦しかった。でも、拒絶はしなかった。ミゼルナの才能は本物だった。あの方のために、強い兵が必要だった。だから、育て続けた。距離を置こうとしても、ミゼルナは縮めてきた。何度も。何度でも。
あの日まで。
あの方が死んだ日。エルフィは全てを捨てて谷に籠もった。ミゼルナを残して。何も言わずに。一言の別れもなく。
長い時間が過ぎた。
その間、ミゼルナは待っていたのだろうか。エルフィを探していたのだろうか。それとも、恨んでいるのだろうか。魔王の座に就いたということは、強くなったのだろう。あの時よりも、ずっと。
分からない。分からないが、会いたくない。あの目を見たくない。あの声を聞きたくない。面倒だ。重い。息苦しい。
「……どうかされましたか」
ベルグの声が聞こえた。
エルフィは我に返った。どれくらい黙っていたのか。ベルグが怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「……いや」
それだけ言った。それ以上は言えなかった。言う必要もなかった。
踵を返した。
「どちらへ」
「外へ出る」
それだけ答えて、歩き出した。
背後でベルグが何か言おうとした気配がした。だが、声にはならなかった。追ってこなかった。止めなかった。
酒場を横切る。冒険者たちが道を開ける。誰も目を合わせない。誰も声をかけない。静寂の中を歩く。自分の足音だけが響く。
扉を押した。
外の光が差し込んだ。眩しかった。目を細める。昼下がりの陽射し。暖かい空気。街の喧騒が聞こえる。露店の声。子供の笑い声。馬車の車輪の音。肉を焼く匂い。果物の甘い香り。生きている街の匂い。
城下町は平和だった。
戦の気配はどこにもない。血の匂いはどこにもない。人々は笑い、歌い、日々を過ごしている。誰もが明日を信じている。来年を信じている。十年後、二十年後を信じている。
あの方が望んだ世界。その中心に、今、ミゼルナがいる。魔王として。統治者として。この平和を守る者として。
会わなければならないのかもしれない。いつかは。でも、今日ではない。今ではない。
まだ、心の準備ができていない。
エルフィは歩き出した。どこへ行くとも決めずに。ただ、ギルドから離れたかった。考えたくなかった。思い出したくなかった。
昔に置いてきたものが、まだここにある。
逃げてきたつもりだった。全てを捨てて、谷に籠もった。世界から消えた。誰にも会わず、誰とも話さず、ただ息をしていた。でも、何も終わっていなかった。何も消えていなかった。時間が止まっていただけだった。
ミゼルナは、まだここにいる。
エルフィを待っている。
分かっている。分かっているから、重い。
石畳を歩く。人とすれ違う。誰もエルフィに気づかない。ただの旅人。ただの通りすがり。それでいい。それがいい。
広場が見えた。噴水がある。子供たちが水遊びをしている。若者たちが談笑している。老人がベンチに座っている。平和な光景。平和な日常。
ふと、足が止まった。
背後に、気配がある。
誰かがこちらを見ている。じっと見ている。隠す気配がない。堂々と見ている。警戒心のない視線。敵意のない視線。ただ純粋な好奇心に満ちた視線。
振り返ろうとした、その時。
「ねえ」
声がした。
若い声。明るい声。遠慮のない声。怯えがない。警戒がない。さっきまでの冒険者たちとは全く違う。
エルフィは振り返った。
少女が立っていた。
若い魔族の少女。小さな角が額から生えている。赤みがかった髪を後ろで束ねている。日に焼けた肌。鍛えられた体つき。腰には剣を佩いている。使い込まれた剣。飾りではない。実戦で使われている剣。
目が輝いている。好奇心に満ちた目。挑戦的な目。負けず嫌いな目。
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