第7話 緑の魔法

 四重の魔力が、エルフィに向かって放たれた。


 赤い光。眩しい光。圧倒的な圧。空気が震える。大気が軋む。


 訓練場の半分を覆い尽くす魔力の壁。轟音が響く。衝撃波が吹き荒れる。野次馬たちが悲鳴を上げた。柵から転げ落ちる者もいる。逃げようとする者もいる。だが足がすくんでいる。それでも目を離せない。


 地面がひび割れる。案山子が吹き飛ぶ。土煙が空へ立ち上る。圧が渦を巻く。息ができないほどの重さだ。逃げ場がない。避ける隙間がない。普通なら死ぬ。押し潰される。周囲から悲鳴が上がった。誰の顔にも絶望が浮かんでいた。


 エルフィは右腕を伸ばした。


 指先が光った。緑の光。魔法陣が浮かぶ。


 一重。二重。三重。四重——五重。


 音もなく。煙も残さず。緑の光が赤い光を飲み込んでいく。触れた瞬間に消えていく。何事もなかったかのように。熱も残らない。痕跡もない。ただ、消える。灰すら残らない。


 静寂が訪れた。


 野次馬たちが言葉を失っている。誰も動かない。誰も声を出さない。何が起きたのか、理解できていないのだろう。いや、理解することを本能的に拒んでいるのかもしれない。


「消えた……?」

「魔力が……」

「何をしたんだ?」

「あり得ねえ……」

「今の……何だ……?」


 ベルグの顔色が変わった。


「打ち消した……」


 声が固い。かすれている。震えている。


「五重展開。触媒なし。しかも、俺の四重を完全に打ち消しやがった」


 エルフィの指先で、魔法陣がまだ浮かんでいる。緑の光が静かに輝いている。消える気配がない。維持し続けている。余裕がある。まだ余力がある。これが全力ではない。


「五重……」


 ベルグの声が震えた。


「触媒なしで五重だと……」


 エルフィは答えなかった。


 代わりに、魔法陣を広げた。五重から六重へ。


 緑の光が強くなる。訓練場を照らす。昼間なのに夜のように明るい。影が伸びる。空気が震える。風が止まる。音が消える。世界が凍る。時間が止まったかのように感じる。


 六重から七重へ。


 訓練場が緑の光に包まれた。


 野次馬たちが後ずさった。悲鳴を上げる者もいた。逃げ出す者もいた。柵を乗り越えて走り去る者もいた。悲鳴が響き渡る。本能的な恐怖。生存本能。理屈ではない。体が逃げろと言っている。この光に触れたら消える。そう分かる。説明はできない。言葉にできない。だが、分かる。


 ベルグは動けなかった。


 七重の魔法陣を見つめている。顔が青ざめている。大剣を持つ手が震えている。膝が笑っている。冷や汗が額を伝っている。体が硬直している。


「『アファニス』……」


 かすれた声で呟いた。


「本物の……『アファニス』……」


 伝説の魔法。


 「七重の魔法陣。大戦時、魔王と幹部たちが使ったとされる伝説の魔法。現代ではクリュセルナ様と現魔王としか使えないとされている。三重でさえ天才と呼ばれる時代に、七重。あり得ない。あり得るはずがない」


 その魔法が、今、ベルグの目の前にある。


 ベルグは動けなかった。動けば死ぬと分かっているのだろう。


 エルフィは七重の魔法陣を維持したまま、静かにベルグを見ていた。


 風が止んでいた。鳥の声も聞こえない。世界が息を潜めている。緑の光だけが、静かに輝き続けている。


 長い沈黙が続いた。永遠のように長い、重い沈黙。


 訓練場の空気が変質していた。緑の光に触れた場所は、何かが違う。温度ではない。湿度でもない。存在の密度そのものが薄まっている。この光の中にいるだけで、少しずつ削られていくような感覚。野次馬たちの何人かは、それを本能で感じ取っていたのだろう。だから逃げた。だから動けなくなった。


 ふと、エルフィの視線が逸れた。


 壁。訓練場の壁。木の柵。そこに、何かがいる。


 虫だった。


 小さな虫。黒い虫。羽が生えている。壁に止まって、じっとしている。何の変哲もない虫。どこにでもいる虫。誰も気にしない虫。


 エルフィの指が動いた。


 緑の魔法陣が、虫に向かって放たれた。七重。『アファニス』。


 虫が消えた。


 壁ごと消えた。


 直径一メートルほどの円形に、壁が消失していた。穴が空いている。向こう側が見える。青い空が見える。白い雲が見える。


 野次馬たちが絶句した。


 ベルグも絶句した。


 虫に。たかが虫一匹に。七重の『アファニス』を使った。壁ごと消し飛ばした。何の躊躇もなく。


「……なぜ」


 ベルグが呟いた。声が震えている。


「なぜ、虫に……」


 エルフィは答えなかった。


 虫が嫌いだった。昔から嫌いだった。理由はない。ただ嫌いだ。見ると消したくなる。反射的に消してしまう。


 ベルグの膝が折れた。


 地面に膝をついた。大剣が手から落ちた。金属音を立てて地面に転がった。土埃が舞い上がった。乾いた金属音が響いた。拾う気力もないのだろう。


 立ち上がろうとしているが、腰が抜けていた。全身から力が抜けていた。歴戦の戦士としての誇りも、ギルド長としての威厳も、何もかもが崩れ落ちていた。


 七重の『アファニス』を、虫一匹のために使った。それだけのことだ。

ベルグの顔が歪んでいた。恐怖ではない。絶望でもない。何かを悟ったような顔だった。


「……参りました」


 ベルグが言った。頭を下げた。額が地面につく。完全な敗北の姿勢。完全な屈服の姿勢。


「あなたが本物だと、認めます」


 エルフィは魔法陣を消した。緑の光が消える。訓練場に静寂が戻る。風が吹き始める。鳥が鳴き始める。世界が動き出す。止まっていた時間が、ゆっくりと流れ始める。


 野次馬たちは呆然と立ち尽くしていた。何が起きたのか、まだ理解できていない様子だ。理解することを頭が拒んでいるのだろう。


「……なんだ、今のは」

「あの女……何者だ」

「『アファニス』って言ってたぞ」

「聞いたことねえ」

「伝説の魔法だ。大戦の時の……」

「嘘だろ。大戦って……五百年前のあの大戦か?」

「ギルド長が膝をついてる……」

「ギルド長があんな姿……見たことねえ」

「あの女……化け物だ」

「化け物なんてもんじゃねえ……」


 ざわめきが広がる。囁き声が波のように広がる。だが、誰もエルフィに近づこうとしない。全員の足が縫い止められたように動かない。


 ベルグがゆっくりと立ち上がった。膝についた土を払う。手がまだ震えている。大剣を拾い上げる。鞘に収める。


 エルフィを見た。


「……登録を、させていただきます」

「ああ」

「ランクは……どうされますか」

「一番下でいい」

「Fランクで、よろしいのですか」

「ああ」


 ベルグは何か言いたそうな顔をしていた。だが、何も言わなかった。


「……かしこまりました」


 ベルグは深く頷いた。


 踵を返し、ギルドへ戻っていく。背中が小さく見えた。威厳が消えていた。覇気が消えていた。敗者の背中だった。圧倒的で、完膚なきまでの完敗。言い訳のしようもない敗北だった。


 エルフィはその後に続いた。


 野次馬たちは道を開けた。誰も目を合わせない。誰も声をかけない。ただ、道を開ける。恐れている。畏れている。触れたくない。関わりたくないといった様子だ。近づいてはいけないと。


 壁に空いた穴が、青い空を映していた。


 たかが虫一匹のために開けられた穴が。

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