第5話 無銘の証
扉を押すと、中は薄暗かった。
窓から差し込む光が埃を照らしている。カウンターがあり、奥には掲示板が見える。依頼書が何枚も貼られている。モンスター討伐、護衛、運搬。ランクごとに色分けされた紙がびっしりと並んでいる。
壁際にはテーブルと椅子が並び、冒険者たちが酒を飲んでいた。十人ほどいる。昼間から飲んでいるのは、依頼の合間か、仕事がないのか。
酒の匂い。汗の匂い。革と鉄の匂い。荒っぽい空気が漂っている。昔の陣営を思い出す。戦の合間、兵士たちが集まって酒を飲んでいた。笑い、歌い、明日をも知れぬ命を忘れようとしていた。あの頃と同じ匂いがする。
エルフィが入ってきたのを見て、何人かがこちらを向いた。
「なんだ、あれ」
「混血か? エルフと……魔族か?」
「珍しい組み合わせだな」
「登録か? あんな細っこい体で?」
「武器も持ってねえぞ」
「ひと月もたねえな」
「賭けるか? 三日だ」
「おれは一週間」
笑い声が上がった。エルフィは気にしなかった。視線には慣れている。昔から、どこへ行っても同じだった。混血は珍しがられる。奇異の目で見られる。蔑まれることもある。それが当たり前だった。
カウンターに向かった。
受付には若い魔族の女がいた。褐色の肌に小さな角。髪は黒く、後ろで束ねている。事務的な表情でエルフィを見た。愛想はないが、仕事はできそうな顔だ。
「冒険者登録ですか」
「ああ」
「では、まず魔力測定を行います」
受付が棚から水晶玉を取り出した。拳二つ分ほどの大きさ。透明な球体が木製の台座の上に乗っている。傷一つない、磨き上げられた綺麗な水晶だった。高価なものだと分かる。
「この水晶に手を触れてください。魔力量に応じて光ります。色と強さで、おおよそのランクが分かります」
エルフィは水晶を見た。測定器。魔力の量と質を測る道具。昔はなかった。戦後に開発されたものだろう。便利なものを作るようになった。平和な時代は、こういうものを生み出す。
手を伸ばした。指先が水晶に触れる。冷たい。滑らかな表面。
光った。
青白い光。眩しいほどの光。受付が目を細めた。冒険者たちが振り向いた。
光が強くなる。青から白へ。白から金へ。水晶が震え始めた。台座がガタガタと揺れる。
「え……?」
受付の顔色が変わった。
光がさらに強くなる。部屋中が眩しく染まる。見ていられない。冒険者たちが腕で目を覆う。水晶の中にひびが入った。細い線が走り、広がっていく。
パキン、と音がした。
水晶が砕けた。破片が台座の上に散らばった。青白い粉が舞い上がる。受付は呆然と立ち尽くしている。口が開いたまま閉じない。
酒場が静まり返った。
笑い声が止んだ。杯を置く音すら聞こえない。全員がエルフィを見ている。
「壊れた……?」
「水晶が……?」
「おい、あれ、測定用の水晶だろ?」
「壊れるとか、聞いたことねえぞ」
「何をやったんだ」
「触っただけだろ。触っただけで壊れるか?」
「細工か何かじゃねえの」
「どうやって細工するんだよ」
冒険者たちがざわついた。椅子から立ち上がる者もいた。エルフィを警戒する目。訝しむ目。恐れる目。
受付は砕けた水晶を見つめていた。手が震えている。
「少々……お待ちください」
それだけ言って、受付は奥へ走っていった。足がもつれている。
エルフィはカウンターの前で待った。背後で冒険者たちがひそひそ話している。声を潜めているが、聞こえている。
「なんだ、今の」
「魔力量が多すぎて測定不能ってことか?」
「あの細っこいのが? 冗談だろ」
「見た目じゃ分からねえよ、魔力は」
「それにしたって壊れるか?」
「やべえやつかもしれねえ。近づくなよ」
しばらくして、奥の扉が開いた。
受付が戻ってきた。後ろに大柄な影がついてきている。
巨大な魔族の男だった。灰色の髪に、太い角が二本。鍛え上げられた体躯。身長は二メートルを超えている。腰には大剣を佩いている。歩き方に隙がない。目つきは鋭く、纏っている空気が違う。戦いを知っている者の気配。修羅場を潜ってきた者の威圧感。
ギルド長だろう、とエルフィは直感した。昔の魔王軍の兵士たちと同じ空気を持っている。あの方の下で戦っていた、あの強者たちと同じ種類の空気。
男がカウンターに近づくと、冒険者たちが道を開けた。誰も逆らわない。誰も目を合わせない。それだけで、この男の立場が分かる。
男はカウンターの前まで来て、エルフィを見下ろした。しばらく無言で見つめていた。品定めするような目。値踏みするような目。隙を探すような目。
「名は」
「エルフィ」
男は眉をひそめた。何かを思い出そうとするように、少し間があった。だが、首を振った。聞き覚えがないという顔だった。
「俺はベルグ。このギルドを預かっている」
ベルグ。エルフィも覚えのない名だった。
「お前が水晶を壊したのか」
「壊すつもりはなかった」
「そうだろうな」
男は砕けた水晶の破片を見た。ため息をついた。
「あれは特注品だ。Sランク冒険者の魔力でも壊れん。安くない」
「弁償が必要か」
「いや、いい。壊れたものは仕方ない」
男は腕を組んだ。
「お前、何者だ」
エルフィは答えなかった。
代わりに、鞄に手を入れた。指先が冷たい金属に触れる。取り出した。
小さな金属の板。掌に収まるほどの大きさ。表に紋章が刻まれている。魔王軍の紋章。裏には『無銘』と刻まれている。ずっと持ち歩いていた。使うことはなかった。使う機会がなかった。
無銘の証。
カウンターの上に置いた。
ギルド長の目が、それに向けられた。
一瞬、空気が凍った。
ギルド長の表情が変わった。険しさが消え、驚愕に変わる。目が見開かれる。顔色が青ざめる。
「これは……」
手を伸ばしかけて、止めた。触れていいのか分からないという顔。
酒場が静まり返っている。冒険者たちが息を呑んで見守っている。受付の女は青ざめた顔で立ち尽くしている。何が起きているのか分かっていない。
「見たことがあるか」
エルフィは聞いた。
ギルド長は答えなかった。視線が無銘の証に釘付けになっている。喉が動いた。唾を飲み込んだ。
「……ああ」
低い声で言った。かすれていた。
「俺は昔、ライザード様の直下にいた。末端の兵だったが、この証がどれほどのものかは知っている」
ベルグは一度目を閉じた。
「魔王軍幹部に与えられた証だ。現存するのはライザード様とクリュセルナ様の二枚のみ。他の所持者は全員、戦死したと聞いている」
目を開けて、エルフィを見た。
「だが、お前の顔は知らん」
「登録したい」
エルフィは同じ言葉を繰り返した。
ベルグは黙ったまま、エルフィを見つめていた。長い沈黙。酒場の誰もが息を殺している。
やがて、ベルグは口を開いた。
「……本物かどうか、確かめさせてもらう」
「好きにしろ」
「裏に来い。広い場所がある」
ベルグが歩き出した。大きな背中。傷だらけの腕。戦いを知っている体。
エルフィはその後について歩いた。
背後で冒険者たちがざわめいている。
「おい、なんだあの金属板」
「知らねえ。見たことねえ」
「ギルド長の顔見たか? 真っ青だったぞ」
「何者なんだ、あの女」
「なんか昔の話してたぞ」
「大戦がどうとか」
「馬鹿言え。そんな昔のこと知ってるわけねえだろ」
「でもギルド長があんな顔したの初めて見たぞ」
足音が後をついてくる。野次馬が増えていく。椅子を蹴って立ち上がる音。酒場を離れる足音。皆、見物に来ようとしている。
エルフィは振り返らなかった。
奥の扉をくぐった。廊下を抜ける。薄暗い廊下だ。裏口が見えた。その向こうに、広い訓練場があるらしい。
これから試されるのだろう。
構わなかった。試されることには慣れている。昔から、何度も試されてきた。あの方に仕えることを許されるまでに、何度も。
扉を開けた。外の陽の光が差し込んだ。
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