第4話 魔族の地へ
境を越えた。
目に見える線があるわけではない。標識があるわけでもない。ただ、空気が変わった。土の匂いが変わった。草の色が変わった。風の温度が変わった。肌に触れるもの全てが、違っていた。
魔族の地。
生まれた場所ではない。育った場所でもない。でも、長い時間を過ごした場所だった。あの方の傍で、戦い続けた場所だった。
昔は、戦場だった。血の匂いがした。煙の匂いがした。死んでいく者たちの声が聞こえた。剣がぶつかる音がした。魔法が炸裂する音がした。悲鳴が響いた。怒号が飛んだ。
今は、何も聞こえない。
風が草を揺らしている。鳥が鳴いている。遠くで、誰かが歌っている。子供の笑い声が聞こえる。それだけ。静かで、穏やかで、平和な土地。戦の痕跡など、どこにもない。
エルフィは立ち止まった。
しばらく、そのまま立っていた。風を感じていた。匂いを嗅いでいた。変わってしまった世界を、確かめていた。
そして、また歩き出した。
道が広くなった。
踏み固められた土から、石畳に変わった。誰かが敷いたのだろう。長い年月の間に、道が整えられた。戦場だった場所に、道ができた。人々が行き交う道ができた。
人とすれ違った。
荷車を引く男。籠を抱えた女。子供を連れた夫婦。杖をつく老人。皆、魔族だった。角がある者。翼を持つ者。尾を持つ者。赤い肌の者。青い肌の者。見た目は様々だが、誰もがこちらを気にしない。
エルフィの姿は目立たない。
ローブのフードを深く被っている。耳は隠れている。顔もほとんど見えない。混血であることは、近くで見なければ分からない。
誰も足を止めなかった。誰も声をかけなかった。誰も不審そうな目で見なかった。
それでいい。それがいい。
昔は違った。混血は珍しかった。奇異の目で見られた。蔑まれることもあった。どこにも居場所がなかった。
今は、違うのかもしれない。平和な時代。種族が混じり合う時代。混血も珍しくなくなったのかもしれない。
村を通り過ぎた。
小さな村だった。家が二十ほど。井戸があり、広場があり、子供たちが走り回っている。市場が立っている。野菜を売る者がいる。肉を売る者がいる。魚を売る者がいる。声が飛び交っている。値切る声。笑う声。怒る声。
昔は、なかった。
この辺りは焼け野原だった。何もなかった。草も生えていなかった。死体が転がっていた。血の匂いが染みついていた。カラスが群がっていた。
今は、人が暮らしている。子供が笑っている。老人が日向で眠っている。若者が働いている。恋人たちが手を繋いで歩いている。赤ん坊の泣き声が聞こえる。
あの方が望んだ世界。
これを守るために、あの方は戦った。これを残すために、あの方は死んだ。
エルフィは足を止めなかった。村を通り過ぎ、また歩いた。立ち止まる理由がなかった。ここに用はない。ただ、通り過ぎるだけ。見届けるだけ。
昼を過ぎた。
道端の木陰で休んだ。大きな木だった。幹が太い。枝が広がっている。木陰が涼しい。昔は、なかったかもしれない。あるいは、あったのかもしれない。覚えていない。戦場だった頃の記憶は、断片的だ。
鞄から水筒を取り出し、一口飲んだ。水は温くなっていた。でも、喉を潤すには十分だった。
空を見上げた。
青い空。白い雲。昔と同じ空。あの頃も、こうして空を見上げたことがある。戦の合間に。死体の山の横で。血に濡れた手で。
あの方も、見ていた。
同じ空を、同じように見上げていた。何を思っていたのかは、分からない。聞かなかった。聞けなかった。聞く勇気がなかった。
今は、もう聞けない。永遠に聞けない。
道を尋ねた。
通りかかった商人に声をかけた。荷車を引く、太った魔族の男。人懐っこい笑顔。赤い肌に小さな角。
「ギルドはどこにある」
商人は少し驚いた顔をした。声を出したのが久しぶりだったから、掠れていたのかもしれない。
「ギルドかい。この道をまっすぐ行けば、城下町がある。そこにギルドがあるよ」
「どのくらいだ」
「歩きなら、夕方には着くかな」
礼を言って、歩き出した。
商人は不思議そうな顔をしていた。でも、何も聞かなかった。それでよかった。
日が傾き始めた頃、城下町が見えた。
村より大きい。城壁がある。門がある。人の出入りがある。賑わっている。煙が何本も立ち上っている。
昔、この辺りには砦があった。
魔王軍の前線基地。エルフィも何度か訪れた。血と汗と、死の匂いが染みついた場所だった。兵士たちが眠り、傷を癒し、また戦場に向かった場所。帰ってこない者も多かった。
今は、跡形もない。
砦は壊され、町が建てられた。戦の記憶は消え、平和な暮らしがある。
それでいい。それがいい。
忘れられることは、悪いことではない。覚えているのは、自分だけでいい。
門に向かった。
門番がいた。鎧を着た魔族。槍を持っている。若い男だった。目つきは鋭いが、表情は緩んでいる。平和な時代の門番。戦いを知らない世代。
「旅の者か」
「ああ」
「目的は」
少し考えた。
なぜ、ここに来たのか。なぜ、歩いているのか。
五百年、谷にいた。世界がどう変わったか、知らない。あの方の死後、何が起きたのか、断片的にしか知らない。
知りたい。
久しぶりに、そう思った。世界を知りたい。あの方が残したものを、見たい。
「……ギルド」
門番は頷いた。それ以上は聞かなかった。
槍を横にして、通れという仕草をした。
エルフィは門をくぐった。
城下町の中は賑わっていた。
露店が並んでいる。果物を売る者。肉を売る者。布を売る者。声が飛び交っている。笑い声が聞こえる。子供が走り回っている。
道を歩く。人の波に紛れる。誰もこちらを見ない。誰も気にしない。ただの旅人。ただの通りすがり。それでいい。
酒場の前を通り過ぎた。中から笑い声が聞こえる。杯を交わす音が聞こえる。昔も、こういう場所があった。戦の合間、兵士たちが集まる場所があった。酒を飲み、歌を歌い、明日をも知れぬ命を笑い飛ばしていた。
昔とは、違う。
あの頃、町は静かだった。皆、怯えていた。いつ戦が始まるか分からなかった。いつ死ぬか分からなかった。
今は、誰も怯えていない。
明日を信じている。来年を信じている。十年後を信じている。それが当たり前になっている。
平和とは、そういうことなのだろう。
ギルドは城下町の中心にあった。
大きな建物。石造り。看板が掲げられている。剣と杖を交差させた紋章。冒険者ギルド。かつては魔王軍の拠点だった組織が、今は冒険者を束ねる組織になっている。時代は変わった。
扉の前には、人が出入りしていた。
若い冒険者たち。鎧を着た者。杖を持った者。剣を背負った者。皆、若かった。戦を知らない世代。平和の中で育った世代。
エルフィは扉の前で立ち止まった。
鞄の奥に手を入れた。指先が、冷たい金属に触れた。
長い間、持ち歩いていたもの。使うことのなかったもの。捨てることもできなかったもの。
『無銘の証』。
あの方から直接受け取った、魔王軍側近の証。小さな金属の板。紋章が刻まれている。裏には、あの方の署名がある。
あの日のことを覚えている。
あの方は何も言わずに、これを差し出した。受け取れ、とだけ言った。理由は聞かなかった。聞く必要もなかった。あの方が渡すものは、受け取る。それだけだった。
今も、まだ通用するのだろうか。
それとも、もう誰も覚えていないのだろうか。忘れられているのだろうか。
分からない。分からないが、確かめる方法は一つしかない。中に入って、確かめるしかない。
扉を押した。
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