第3話 旅立ちの朝
二度目の朝が来た。
納屋の隙間から差し込む光で目を覚ますのは、これで二度目だった。藁の匂いにも、土の匂いにも、少しだけ慣れた。体に馴染んできている。それが、少しだけ怖かった。
エルフィは体を起こした。
昨夜は夢を見た。焚き火を囲む夢だった。兵士たちの歌声が聞こえた。あの子守唄。老婆が歌っていた、あの旋律。夢の中で、あの方がいた。何も言わずに、火を見つめていた。隣に座っていた。いつものように、静かに黙って。
目が覚めたとき、胸が締め付けられた。
でも、泣きはしなかった。涙は、とうの昔に枯れている。長い間、一度も泣いていない。泣いても、何も変わらないから。
納屋の戸を開けた。
空は薄く曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込めている。雨が降るかもしれない。降らないかもしれない。どちらでも構わなかった。
小屋の方を見た。煙が立ち上っている。老婆はもう起きている。いつもと同じ朝。いつもと同じ光景。
でも、今日は違った。
今日、発つ。
一晩泊まるつもりだった。それがもう一晩になった。畑を手伝った。飯を食った。それで十分だった。これ以上ここにいると、離れられなくなる。根を下ろしてしまう。それが怖かった。
長い間、そうやって生きてきた。どこにも留まらない。誰とも深く関わらない。それが、自分を守る方法だった。失わないために、最初から持たない。傷つかないために、最初から近づかない。
井戸で顔を洗った。
水は冷たかった。指先が痺れる。目が覚める。体が覚める。冷たさが、心を引き締める。
髪を結い直す。荷物をまとめる。皮の鞄。水筒。乾いたパン。古びた地図。それだけ。それだけで足りる。ずっと、そうだった。
小屋の前に、老婆が立っていた。
手に何かを持っている。布に包まれた、小さな塊。
「起きたかい」
「ああ」
「発つんだね」
老婆は聞かなかった。どこへ行くのか。なぜ発つのか。何も聞かなかった。最初から何も聞かなかった。名前も。過去も。これからのことも。
「ああ」
それだけ答えた。それ以上は言えなかった。
老婆は頷いた。それだけだった。それ以上は何も言わなかった。
エルフィは老婆の前まで歩いた。
「世話になった」
「大したことはしてないよ」
「畑仕事、悪かったな」
「助かったよ。一人じゃ腰が痛くてね。おかげで楽になった」
老婆は笑った。皺だらけの顔が、少しだけ柔らかくなる。夕陽の中で見たときと同じ笑顔。囲炉裏の火に照らされたときと同じ笑顔。
手に持っていたものを差し出した。
「これ、持っていきな」
布の包み。受け取って開くと、パンが入っていた。焼きたてのパン。まだ温かい。朝、焼いたのだろう。エルフィのために。旅立つエルフィのために。
「旅の足しにしな」
残りではないことは分かっていた。わざわざ焼いたのだ。早起きして、火を起こして、粉を練って。
エルフィは受け取った。温もりが手のひらに伝わる。じんわりと、心に染みる。
「……ありがとう」
その言葉を口にするのは、久しぶりだった。長い間、誰にも言わなかった言葉。言う相手がいなかった。言う理由もなかった。
老婆は何も言わなかった。ただ、頷いた。濁った目が、エルフィを見ていた。見えているのかいないのか分からない目。でも、確かに見ていた。
畦道を歩き始めた。
振り返らなかった。振り返る理由がなかった。別れは済んだ。言葉は交わした。それで十分だった。
でも、背中に視線を感じた。
老婆が見送っているのだろう。小屋の前に立って、こちらを見ている。見えなくなるまで、見ているのだろう。
足を止めなかった。振り返らなかった。
それでいい。それがいい。
長い間、そうしてきた。出会い、別れ、また歩き出す。それだけのことを、繰り返してきた。これからも、繰り返していく。
集落を抜けた。
家が七つか八つ。小さな集落だった。境と呼ばれる土地。どの国の中心からも遠く、忘れられた場所。でも、人は暮らしていた。老婆のように、静かに暮らしている者がいた。曾孫に子守唄を歌う者がいた。
子守唄が聞こえる気がした。
聞こえるはずがない。もう遠く離れた。でも、耳に残っている。古い旋律。昔の歌。兵士たちが歌っていた歌。
ばあさまのばあさまから教わった、と老婆は言った。
五百年の間に、歌だけが残った。歌った者たちは皆死んだ。聴いていた者も、ほとんど死んだ。でも、歌は残った。誰かから誰かへ、受け継がれてきた。意味も分からないまま。ただ旋律だけが、受け継がれてきた。
あの方は聴いていただけだった。
何も言わなかった。歌わなかった。ただ、静かに聴いていた。火を見つめ、夜の中に座っていた。
何を思っていたのだろう。
聞けなかった。聞かなかった。もう、聞くことはできない。
道を歩く。
道と呼べるほどのものではない。踏み固められた土。草が生えている。誰かが歩いた跡。それだけ。でも、確かに道だった。誰かが歩き、誰かが続き、道になった。
空は相変わらず曇っている。灰色の雲が流れていく。風が出てきた。冷たい風だった。ローブの裾が翻る。髪が乱れる。
鞄の中のパンを思い出した。老婆がくれたパン。まだ温かかった。今はもう冷めているだろう。でも、鞄の中にある。
温もりは消えても、パンは残る。
歌も、そうなのかもしれない。歌った者は死んでも、歌は残る。誰かの記憶の中に、誰かの声の中に。
エルフィは歩き続けた。
昼を過ぎた頃、雨が降り始めた。
小雨だった。霧のような、細かい雨。フードを被った。ローブが少しずつ湿っていく。
足を止めなかった。
雨の中を歩くのは慣れている。何度も歩いてきた。嵐の中を歩いたこともある。雪の中を歩いたこともある。それに比べれば、小雨など何でもない。
戦の最中も、雨の中を歩いた。
泥濘に足を取られながら、前線を移動した。雨に打たれながら、夜を明かした。あの方の傍で、同じ雨に濡れながら。あの方は文句を言わなかった。濡れた髪が頬に張りついても、ただ黙って前を見ていた。
でも、少しだけ思った。
あの納屋は温かかった。藁の匂いがした。土の匂いがした。雨の音を聞きながら、眠ることができた。囲炉裏の火は温かかった。老婆の笑顔は温かかった。向かい合って食べる汁物は温かかった。
それだけのことだった。それだけのことを、少しだけ思い出した。
夕方になる頃、雨は止んだ。
雲の切れ間から、夕陽が差し込んだ。赤い光が、濡れた草を照らしている。水滴が光っている。小さな輝きが、あちこちに散らばっている。世界が輝いて見える。
エルフィは足を止めた。
丘の上に立っていた。振り返ると、来た道が見えた。集落は見えない。もう遠く離れた。老婆の姿も見えない。でも、あの場所は確かにあった。歌があった。温もりがあった。
前を向いた。
魔族の地が広がっている。丘や森や、遠くに町の影。昔とは違う景色。戦場だった場所が、今は穏やかな土地になっている。
あの方が望んだ世界。
協定が結ばれ、四つの種族が手を結んだ。争いは終わり、平和が訪れた。長い時間の間に、世界は変わった。
エルフィだけが、変わらない。
昔と同じ姿で、同じように歩いている。何も変わらない。何も変われない。
でも、歩き続ける。
鞄の中のパンを取り出した。
老婆がくれたパン。冷めていた。でも、柔らかかった。一口、齧った。小麦の香りが口に広がる。
素朴な味だった。飾り気のない、普通のパン。でも、それだけのものが、少しだけ温かく感じた。
食べ終えて、また歩き出した。
夕陽が背中を照らしている。影が長く伸びている。
あの方のいない空の下で、エルフィは歩き続ける。
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