第2話 境の畑

 朝が来た。


 納屋の隙間から、薄い光が差し込んでいる。藁の匂い。土の匂い。埃の匂い。どれも、久しぶりの匂いだった。谷の家とは違う匂い。誰かの暮らしの匂い。生きている場所の匂い。


 エルフィは体を起こした。


 よく眠れた。夢を見たかもしれない。覚えていない。でも、悪い夢ではなかったと思う。目覚めたとき、胸が重くなかった。いつもなら、目が覚めた瞬間に虚しさが押し寄せてくる。今朝は、それがなかった。


 体を伸ばした。藁が擦れる音がする。外から鳥の声が聞こえる。遠くで誰かが話している声も聞こえる。子供の笑い声も聞こえる。集落が目を覚ましている。


 納屋の戸を開けた。


 外は曇っていた。灰色の空。昨日と同じ空。でも、風は穏やかだった。冷たさの中に、かすかな温もりがある。


 小屋の方から、煙が立ち上っている。老婆はもう起きているらしい。囲炉裏に火を入れたのだろう。



 井戸で顔を洗った。


 水は冷たかった。指先が痺れるほど冷たい。目が覚める。体が覚める。いつもと同じように朝を迎える。


 でも、今日は少し違った。


 誰かがいる朝だった。誰かの暮らしの中にいる朝だった。それだけで、水の冷たさが違って感じられた。冷たいけれど、どこか心地よかった。


 髪を結い直した。銀色の長い髪。濡れた手で撫でつける。


 小屋の方へ歩いていくと、老婆が外に出てきた。


「起きたかい」

「ああ」


 老婆は畑の方を見た。小屋の裏手にある、小さな畑。雑草が伸びている。


「今日は畑仕事さ。腰が痛くてね、なかなか進まないんだよ」


 独り言のように言った。エルフィに向けた言葉ではないようだった。ただ、空に向かって呟いているような声だった。


 でも、エルフィは立ち上がっていた。


「……手伝う」


 老婆は少し驚いた顔をした。濁った目が、エルフィを見上げる。でも、すぐに笑った。皺が深くなる。


「そうかい。助かるよ」



 畑は小さかった。


 十歩四方くらい。根菜が植わっている。葉物が植わっている。雑草が生えている。手入れが行き届いていない。老婆一人では、限界があるのだろう。


 鍬を借りた。


 古い鍬だった。柄が磨り減っている。何十年も使われてきたのだろう。手に馴染む重さ。握ると、どこか懐かしかった。


 土を掘り返す。雑草を抜く。畝を整える。体が覚えている動き。昔にも、似たようなことをしていた。


 戦の合間。陣営の外れで、兵士たちが畑を作っていた。食料は常に足りなかった。補給は途切れがちだった。自分たちで作るしかなかった。


 エルフィも手伝った。鍬を振るい、種を蒔き、水をやった。泥だらけになりながら、黙々と働いた。魔法など使わなかった。手で、体で、土と向き合った。


 あの方は何も言わなかった。ただ、遠くから見ていた。陣幕の前に立って、畑を見ていた。兵士たちを見ていた。エルフィを見ていた。


 見ていてくれた。


 それだけで、十分だった。


 汗が額を伝う。鍬を振り下ろす。土が砕ける。雑草が飛ぶ。単純な作業。でも、体が動いている。生きている実感がある。久しく忘れていた感覚だった。



 昼になった。


 老婆が水を持ってきた。木の椀に入った、井戸の水。


「休みな。無理しなくていいよ」


 エルフィは鍬を置き、水を受け取った。喉を潤す。冷たい水が体に染みていく。汗をかいた後の水は、格別だった。


 畑の端に座った。老婆も隣に座った。二人で畑を眺めた。半分ほど終わっている。雑草が抜かれ、土が柔らかくなっている。


「慣れてるねえ」


 老婆が言った。


「畑仕事、やったことあるのかい」

「……昔」

「そうかい」


 老婆はそれ以上聞かなかった。昔がいつなのか。どこでやったのか。誰とやったのか。何も聞かない。


 ありがたかった。


 答えられることは、何もなかったから。


 風が吹いた。汗が冷えていく。でも、気持ちよかった。体を動かした後の風は、心地よかった。空を見上げた。灰色の空。でも、どこか明るく見えた。



 午後も畑仕事を続けた。


 雑草を抜き、土を耕し、肥料を撒いた。老婆は時々休みながら、でも一緒に働いた。種を蒔く場所を教えてくれた。水のやり方を教えてくれた。声は少なかった。でも、それでよかった。


 黙って働く。それだけでよかった。


 昔もそうだった。兵士たちと畑を耕したとき、言葉は少なかった。皆、黙々と働いた。疲れた体を動かし、汗を流し、土と向き合った。戦の合間の、束の間の平穏。誰もがそれを大切にしていた。


 畑仕事が一段落した。


 雑草はなくなり、畝は整い、作物が伸び伸びと育っている。見違えるほど綺麗になっていた。


「助かったよ」


 老婆が言った。畑を見渡しながら。


「一人じゃ、何日もかかる仕事だ」

「……大したことはしていない」

「いいや、大したことさ」


 老婆は満足そうに畑を眺めていた。それから、エルフィを見た。


「少し歩いてきたらどうだい。ここらは静かでいいよ」


 エルフィは頷いた。体を動かした後の、心地よい疲れがあった。少し歩くのも悪くない。



 集落の周囲を歩いた。


 小さな丘がある。古い井戸がある。風に揺れる草原がある。どこまでも続く灰色の空。静かだった。平和だった。


 人の営みがある場所。でも、静かな場所。戦がなく、争いがなく、ただ日々を重ねている場所。


 丘を越えた。


 向こう側には草むらが広がっていた。背の高い草が風に揺れている。虫の声が聞こえる。


 ふと、足が止まった。


 草むらの中に、何かがいる。


 黒い甲羅。長い脚。節くれだった体。大きな虫だった。手のひらほどもある。こちらを向いている。触角が動いている。


 エルフィの指が動いた。


 緑の光が灯った。


 一重。二重。三重。四重。五重。六重。七重。


 魔法陣が空気を震わせた。緑の光が草むらを照らす。一瞬だった。光が収束し、放たれた。


 虫が消えた。


 草むらごと、消えた。


 直径二メートルほどの円形に、地面がえぐれていた。黒い土が露出している。草も、虫も、跡形もない。


 風が吹いた。何事もなかったかのように、残った草が揺れている。


「——何の音だい」


 声が聞こえた。振り返ると、老婆が小屋の前に立っていた。こちらを見ている。


「……気のせいだ」


 エルフィは答えた。


 老婆は首を傾げた。でも、それ以上は聞かなかった。


 ありがたかった。



 夕暮れが来た。


 小屋に戻り、囲炉裏を囲んだ。


 鍋がかかっている。湯気が立ち上っている。根菜の汁物。素朴な匂いが小屋の中に満ちている。温かい空気が顔を包む。


 老婆が椀を差し出した。


「さあ、食べな。畑仕事の後は腹が減るだろう」


 エルフィは椀を受け取った。温かかった。両手で包むと、指先に温もりが染みてくる。井戸の水で冷えた手が、じんわりと温まっていく。


 向かい合って座る。老婆も椀を持っている。


 五百年ぶりだった。


 誰かと向かい合って、同じものを食べる。同じ時間を過ごす。それだけのことが、胸に染みた。


 汁を啜った。素朴な味だった。根菜の甘み。塩の加減。飾り気のない、普通の汁物。でも、温かかった。体だけでなく、どこか奥の方まで温かかった。


「美味いかい」

「……ああ。美味い」

「そうかい」


 老婆は嬉しそうに笑った。


 二人で黙って食べた。囲炉裏の火が燃えている。火が爆ぜる音がする。外が暗くなっていく。夜が来る。虫の声が聞こえ始める。



 食べ終えた。


 エルフィは立ち上がろうとした。納屋に戻るために。


「——もう一晩、泊まっていくかい」


 老婆が言った。囲炉裏の火を見つめながら。


「今夜も冷えるからね」


 エルフィは老婆を見た。濁った目。でも、どこか温かい目。火の光が揺れている。


 いつもなら断る。一晩だけ。それ以上は関わらない。それが自分のやり方だった。


 でも、今日は違った。


 畑仕事をした。汗をかいた。腹が減った。飯を食った。


 それだけのことが、どこか懐かしかった。


「……世話になる」


 老婆は笑った。


「そうかい」



 納屋に戻った。


 藁の上に横になる。体が疲れていた。心地よい疲れだった。働いた後の、久しく感じていなかった疲れだった。


 目を閉じる。


 畑の土の匂いがする。鍬を振るう感触が残っている。老婆の笑い声が聞こえる。汁物の温かさが、まだ体に残っている。


 あの方が守りたかったもの。戦い続けた理由。


 こういう日々だったのかもしれない。


 畑を耕す日々。飯を食う日々。誰かと過ごす日々。静かで、穏やかな日々。


 今夜は、ここにいる。


 それだけのことが、今は温かかった。

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