序章
第1話 境の子守唄
あの方が死んで、五百年が経った。
四つの種族は手を結び、世界は平和になった。戦乱の時代は終わり、人々は穏やかに暮らしている。誰もがあの時代を忘れ、誰もがあの方を忘れた。
どの国の領土でもない谷がある。
人間国の果て、エルフの森の外れ、魔族の地の境——そのどれからも遠く、忘れられた裂け目。草も満足に育たず、風も語らず、ただ空だけが広い。誰も来ない。誰も知らない。地図にも載っていない。
谷の底に、小さな家がある。
誰も訪れない。誰も知らない。長い時間、そこでエルフィは息をしてきた。
朝が来た。
いつもと同じ朝だった。目が覚めて、体を起こして、窓の外を見る。灰色の空。曇っている。昨日も曇っていた。一昨日も。その前も。この谷はいつも曇っている。太陽が差し込むのは、年に数えるほどしかない。
エルフィは鏡を見ずに髪を結った。長い銀髪。腰まで届く。でも、長い耳。魔族の血も混じっている。混血。どちらにも属さない存在。
ローブを羽織った。古びた灰色のローブ。長く着続けている。何度も繕った。何度も洗った。でも、捨てられなかった。
革の鞄を手に取る。中には水筒と乾いたパン、古びた地図。それだけ。それだけで足りる。ずっと、それだけで足りてきた。
戸を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
今日はどこへ行こうか。
いや、どこでもよかった。行く場所などない。帰る場所もない。待っている者もいない。ただ、歩く。それだけ。同じ場所に長くいると、息が詰まるようになった。だから、時々谷を出る。どこかへ歩いて、また戻ってくる。それを繰り返してきた。
谷を抜けるのには半日かかる。
急ぐ理由はない。エルフィは慣れた足取りで岩を登り、斜面を越えていく。風が冷たい。でも、気にならない。この道は何度も歩いた。足が覚えている。目を閉じていても歩ける。
岩肌を登る。草が少しずつ増えてくる。空が広くなる。
谷を抜けると、風が変わった。
乾いた土の匂いから、かすかな緑の気配へ。生きているものの匂い。人が暮らしている匂い。煙の匂い。
魔族の地が近い。国の端、境と呼ばれる一帯。忘れ去られた土地。けれども静かに息づいている。
エルフィは何も考えずに歩いた。道はない。でも、足が覚えている。
風が止んだ。
代わりに、声がかすかに聴こえた。
低く、掠れた声。ゆっくりと時が流れるような、やわらかな旋律。子守唄だ、とすぐに分かった。どこか遠くから、風の名残のように漂ってくる。
エルフィは足を止めた。
知っている。
長く聴いていなかった。でも、覚えている。体が覚えている。血が覚えている。
焚き火の匂いが蘇る。夜の陣幕。魔族の兵士たちが口ずさんでいた。戦の合間、束の間の休息。誰が始めるでもなく、誰が終えるでもなく、歌声は夜に溶けていった。
あの方は、何も言わなかった。幕の中で静かに聴いていた。火を見つめ、黙って座っていた。
何を思っていたのか。聞けなかった。聞かなかった。
今はもう、聞けない。
丘を越えると、集落があった。
小さな家が七つか八つ。寄り添うように建っている。畑がある。井戸がある。煙が細く立ち上っている。魔族の地の境。忘れられた場所。でも、人は暮らしている。静かに、穏やかに、日々を重ねている。
歌は集落の外れから聴こえていた。
一軒の家の前。古い椅子に、老いた魔族の女が座っている。皺だらけの顔。白い髪。小さな角が額から生えている。膝の上に幼子を抱いて、歌い続けている。
エルフィは近づかなかった。離れた木の影で立ち止まり、聴いていた。
歌は短った。同じ旋律を三度繰り返して、終わる。
幼子は眠ったらしい。老婆は歌うのをやめ、空を見上げた。しばらく、そのまま空を見ていた。
「——そこにいるのかい」
老婆が言った。空を見上げたまま。
エルフィは答えなかった。
「耳だけはまだ残っていてね。足音が聞こえたよ」
老婆はゆっくりと顔を向けた。濁った目。見えているのかいないのか、分からない。でも、エルフィの方を確かに見ていた。
「旅の人かい。珍しいね、こんな境まで来るなんて」
「……通りすがりだ」
声が掠れていた。一人で生きてきた。誰かと言葉を交わすのは、久しぶりだった。
「歌が聴こえた」
老婆は少し笑った。皺がさらに深くなる。
「古い子守唄さ。ばあさまのばあさまから教わった。この子にも聴かせてやりたくてね」
ばあさまのばあさま。それでも、まだ足りない。もっと前から、歌は受け継がれてきた。
「いい歌だ」
「歌詞の意味は、わからないんだよ。古い言葉でね。でも、旋律だけは残ってる。不思議なもんだ」
老婆は幼子の頭を撫でた。小さな寝息が聞こえる。
「昔、兵隊さんたちが歌っていたって話さ。魔王様の時代の」
エルフィは何も言わなかった。
「遠い昔の話さ。私だって生まれてない頃の。でも、歌だけは残る。人は死んでも、歌は残る。不思議だねえ」
風が吹いた。冷たい風だった。でも、どこか優しかった。
「——泊まっていくかい」
老婆が言った。
「納屋で良ければ、藁はあるよ。今夜は冷えるからね」
エルフィは迷った。いつもなら断る。誰とも関わらず、通り過ぎる。それがずっとのやり方だった。
けれど、今日は足が動かなかった。
歌のせいかもしれない。久しぶりに聴いた旋律。久しぶりに思い出した夜。
「……世話になる」
老婆は笑った。
夕暮れが近づく頃、集落の女が幼子を迎えに来た。
若い魔族の女。幼子を抱き上げ、老婆に頭を下げて帰っていく。小さな背中が、畦道を歩いていく。
老婆はそれを見送っていた。
「曾孫さ」
老婆が言った。
「あの子の母親も、私が子守唄を歌って育てた。その母親も。そのまた母親も」
歌が、受け継がれていく。命が、受け継がれていく。
エルフィには、どちらもなかった。
「納屋はあっちだよ。好きに使いな」
老婆は小屋の中に入っていった。
納屋は小さかった。
藁が積まれている。農具が立てかけられている。鍬、鋤、鎌。使い込まれた道具たち。埃っぽいが、雨風は凌げる。外よりは温かい。壁の隙間から夕陽が差し込んで、藁を金色に染めている。
エルフィは藁の上に腰を下ろした。
藁の感触が懐かしかった。戦の時代、こうして藁の上で眠ったことがある。陣営の片隅で、兵士たちと同じように。あの方は別の場所で眠っていた。側近として傍にいることは許されていたが、同じ場所で眠ることはなかった。
鞄を下ろし、ローブの襟を緩める。鞄の中のパンを齧った。乾いたパン。味気ない。でも、腹は膨れる。水筒の水で流し込んだ。
目を閉じる。
暗闇の中に、焚き火が見えた。
兵士たちの影が揺れている。歌声が聞こえる。あの旋律。さっき老婆が歌っていた、あの子守唄。
陣幕の中に、あの方がいた。
黙って座っている。火を見つめている。何も言わない。何も語らない。ただ、そこにいる。
エルフィはその隣にいた。いつも隣にいた。言葉はなくても、それでよかった。同じ火を見て、同じ歌を聴いて、同じ夜を過ごす。それだけで、十分だった。
時々、あの方は空を見上げた。星を見ていた。何を思っていたのか、聞かなかった。聞けなかった。ただ、同じように空を見上げた。同じ星を見ていた。
目を開けた。
焚き火はなかった。兵士たちもいなかった。あの方も、いなかった。
藁の匂いがする。納屋の暗がり。一人きり。
ずっと、一人だった。
これからも、ずっと一人だろう。
それでも、今夜は少しだけ違った。
歌が聴こえた。久しぶりに、あの歌が聴こえた。
それだけで、今夜はここにいようと思った。
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