あの方のいない空の下で

moyu.

プロローグ 

 走っていた。


 足が地面を蹴る。体が前に進む。それだけを繰り返していた。考えることをやめた。ただ、走った。


 戦場の匂いがする。血と、土と、焦げた何かの匂い。遠くで剣戟の音が聞こえる。悲鳴が聞こえる。でも、そんなものはどうでもよかった。


 あの方のもとへ。


 それだけを考えていた。


 知らせを聞いたのは、別の戦場だった。


 別隊の指揮を任されていた。あの方がそう決めた。お前は向こうを頼む、と。いつものように短く、いつものように静かに。


 千年、傍にいた。


 傍を離れたことは、ほとんどなかった。なのに、あの方はあの日に限って、別の場所へ行けと言った。


 珍しいな、と思った。


 でも、それだけだった。あの方が決めたことに口を挟むのは、千年傍にいても、できなかった。


 伝令が駆け込んできた時、胸騒ぎがした。


 顔を見て、分かった。


 何かが終わった顔だった。


 魔王城が見えた。


 煙が上がっている。壁が崩れている。門は壊れていた。誰もいない。戦いは終わっていた。


 足を止めなかった。


 門をくぐった。中庭を駆け抜けた。玉座の間へ続く廊下を走った。倒れている兵士たちの間を縫って。味方も、敵も、区別がつかなかった。みんな同じように倒れていた。みんな同じように動かなかった。


 扉が見えた。


 開いていた。


 光が差し込んでいた。天井が崩れて、空が見えていた。灰色の空。曇っている。


 足が止まった。


 玉座の前に、あの方がいた。


 倒れていた。


 仰向けに。目を閉じて。穏やかな顔で。まるで眠っているように。


 血の海の中で。


 駆け寄った。


 膝をついた。血が染み込んでくる。温かくない。もう冷えている。


 顔を見た。


 傷だらけだった。でも、苦しそうではなかった。痛そうでもなかった。ただ、静かだった。


 手を伸ばした。


 頬に触れた。


 冷たかった。


 こんなに冷たい。さっきまで温かかったはずなのに。さっきまで生きていたはずなのに。


 いつだ。


 いつ死んだ。


 どのくらい前だ。


 分からない。分からないまま、触れていた。


 何か言いたかった。


 でも、声が出なかった。


 喉が詰まっていた。息ができなかった。胸が痛かった。


 言葉を交わせなかった。


 最期に何を思ったのか。最期に何を見たのか。最期に、何を——


 分からない。


 聞けなかった。もう、聞けない。


 なぜ、遠ざけた。


 あの日に限って。あの時に限って。


 傍にいれば、何かできたかもしれない。守れたかもしれない。少なくとも、最期に何か言葉を交わせたかもしれない。


 でも、いなかった。


 あの方の最期に、立ち会えなかった。


 空を見上げた。


 崩れた天井の向こうに、灰色の空が広がっていた。


 雲が流れている。風が吹いている。世界は何事もなかったように動いている。


 あの方はもういない。


 それだけが、変わっていた。


 どのくらいそうしていたか分からない。


 気づいたら、立ち上がっていた。


 膝が血で濡れていた。手も濡れていた。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、動けなくなる気がした。


 歩き出した。


 一歩。また一歩。


 足が重い。体が重い。でも、止まれなかった。止まったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。


 門を出た。


 空はまだ灰色だった。


 誰にも何も告げず、エルフィは姿を消した。

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