静寂の切り絵

三角海域

静寂の切り絵

「先輩のAI、すごいんですけど、なんかこう……『実家の猫』みたいな無条件の安心感が足りなくないですか?」


 後輩のその言葉を聞き、天峰涼香はコンビニおにぎりの封を開ける手を止めた。

 モニターには完璧な数値データが並んでいる。感情認識AIとしては申し分ない精度だ。けれど、後輩の指摘は的を射ていた。


「猫の温かさは数値化できないからね」


 苦笑してそう答えたものの、その言葉は涼香の胸にちくりと刺さった。窓ガラスに映る自分の顔。目の下には、ここ数週間の残業が青黒い影になっている。スーツの襟元を直しながら、涼香は小さく息をついた。


「安心感、か」


 呟いて、涼香はスマートフォンを取り出した。研究のヒントを探すため、地元の市民センターで開催されている教室の情報を検索する。陶芸、ヨガ、書道……そして、切り絵教室。


『静寂の中で心を整える』


 その一文が、なぜか目に留まった。



市民センター三階の和室に足を踏み入れると、畳のにおいと静けさが涼香を包んだ。参加者たちは黙々と紙に向かい、カッターナイフを動かしている。その小刻みな音だけが、規則的に響いていた。


 涼香は部屋の隅に立ち、参加者たちの表情や動作を観察した。研究者としての癖だ。そして、窓際の席に座る一人の女性の横顔に、目が釘付けになった。


 麻のブラウスから伸びる細い腕。その指先が紙の上を滑るたび、白い平面から花びらが浮かび上がっていく。


 涼香の心臓が、小さく跳ねた。


 あの子だ。


 中学時代、図書室の窓際でいつも本を読んでいた少女。学校に来たり来なかったりしていた彼女と、言葉を交わすことはあまりなかったけれど、放課後の図書室で、本のことを何度か語り合った。


 小野寺栞。


 切り絵教室が終わるまで、涼香は廊下で待った。

 声をかけていいものか迷った。自分は東京に出て、ずいぶん変わってしまった。静かに暮らしている彼女を、驚かせたくない。けれど、あの指先の動きに、自分のAIに足りない「何か」があると、直感が告げていた。


 和室のドアが開き、参加者たちが出てくる。最後に、栞が現れた。


「小野寺さん……栞ちゃん、だよね?」


 栞は目を丸くして、それから懐かしそうに微笑んだ。


「天峰……さん?」


 その笑顔を見た瞬間、涼香の張り詰めていた肩の力が、すこし抜けた。



 駅前のカフェで、二人は向かい合った。


「東京で研究してるって、すごいね」


 栞はカフェオレのカップを両手で包みながら言った。陶器越しに温もりを確かめるような、そんな持ち方だった。


「天峰さん、昔から頭良かったもんね」


「栞ちゃんこそ。さっきの切り絵、本当に綺麗だった」


 栞は照れたように首を傾げた。髪がさらりと肩に落ちる。


「市民サークルで教えてるだけだよ。あとは在宅でデータ入力の仕事してる」


 ぽつりぽつりと互いの近況を話した。涼香の「締め切りに追われる日々」と、栞の「静かに暮らす毎日」。正反対なのに、話していると不思議と居心地がよかった。


「実は、お願いがあるんだけど」


 涼香は姿勢を正した。


「私、今アートセラピーAIの研究をしてるの。栞ちゃんの切り絵を、参考にさせてもらえないかな」


「私の?」


「うん。センサーをつけて、切り絵を作っている時の心拍とか脳波を測らせてほしいの」


 涼香は身を乗り出した。


「栞ちゃんのあの手の動き、あのリズムに、何か大切なヒントがある気がするんだ」


 栞はカップに視線を落として、しばらく考え込んだ。それから、小さく頷いた。


「天峰さんの役に立てるなら」



 次の週末、涼香は自宅のダイニングテーブルを片付けて、簡易的な測定スペースを作った。


「ごめんね、狭くて」


「ううん、落ち着く」


 栞は部屋を見回して、おだやかに笑った。


「研究室より、こっちの方が緊張しないかも」


 センサーを装着して、栞は切り絵を始めた。涼香はノートパソコンの画面でデータを追いながら、時折、栞の手元に目を移す。


 魔法を見ているようだった。


 白い紙から、花が現れる。蝶が生まれる。風景が浮かび上がる。栞の呼吸は深く、ゆっくりと規則的で、心拍のグラフは穏やかな波を描いていた。


「すごい……」


 涼香は思わず声を上げた。


「栞ちゃん、完全にゾーンに入ってる」


 栞は手を止めずに、少しだけ顔を上げた。


「天峰さんが見ててくれると、不思議といつもより手が動くの」


 その言葉に、涼香の胸がじんわりと温かくなった。研究室の冷たいモニターではなく、人の体温がある場所で、久しぶりに心の底から「綺麗だ」と思えた。


 週末ごとのセッションを重ねるうちに、二人の時間は自然と膨らんでいった。測定の合間にコーヒーを淹れ、スーパーで買ったシュークリームを分け合い、学生時代の話をする。涼香にとって、それは研究以上に大切な時間になっていた。


「栞ちゃん、本当にありがとう。おかげですごくいいデータが集まったよ」


 ある日、涼香は契約書と謝礼の入った封筒をテーブルに置いた。研究協力者への正当な報酬。仕事では当たり前のことだった。


 けれど、栞の表情が曇った。


「あの……これは」


「謝礼だよ。栞ちゃんの時間をもらったんだから」


「でも……」


 栞は封筒を見つめたまま、手を伸ばさなかった。


「お金をもらうと、それに見合うものを返さなきゃって思っちゃうの」


 声が小さくなる。


「私、人の期待に応えるのが……すごく、怖くて」


 栞は俯いた。


 涼香の胸に、冷たいものが落ちた。自分の「仕事の常識」が、栞を追い詰めてしまった。


「ごめん、私……」


「ううん、天峰さんは悪くないよ」


 栞は慌てて首を振った。


「私が変なの。ごめんなさい」


 その日、栞は早々に帰った。玄関で振り返った彼女の笑顔は、どこかぎこちなかった。



 月曜日、研究室で上司が言った。


「天峰さん、このデータは素晴らしいよ。早く実装に移ろう」


 モニターには完璧なグラフが並んでいる。けれど、そのデータを見るたびに、栞の怯えた顔が浮かんだ。


 私は彼女を利用しただけなんじゃないか。


 罪悪感が、涼香の胸を締めつけた。友人を実験材料にしてしまった。研究者として、人として、取り返しのつかないことをしたのではないか。


 深夜、涼香は試しにデータをAIに仮実装してみた。

 生成された画像が出力される。

 0.1ミリの狂いもない、完璧な蝶だった。左右対称。黄金比に則った曲線。それなのに、モニターの中のそれは、まるで死んだ標本のようだった。

 栞が切った蝶には、わずかな「揺らぎ」があった。迷い、あるいは呼吸の震え。その揺らぎこそが必要だったのだと、完璧すぎる曲線を前にして初めて気づく。


 涼香はデスクに突っ伏した。



 終電を逃した夜、涼香はオフィスの窓から夜景を眺めた。


 中学三年の冬を思い出す。珍しく高揚した様子で、栞が本の感想を話してくれたことがあった。


「この本、終わり方がとても悲しいの。けど、その悲しみはその人にとって必要なものだなって思えるんだ。だから、この終わり方も幸せな結末なんじゃないかなって」


 それは読書感想文のお手本みたいな言葉じゃない。栞自身の心を通った、まっすぐな言葉だった。


「栞ちゃんの感想、すごく好き。まっすぐで」


 何気なく言った一言だった。栞がどんな顔をしたか、涼香は覚えていない。けれど後日、栞は小さな声で言ってくれた。


「あの言葉、お守りにしてる」


 今、涼香もまた、栞に救われていた。


 東京で気を張り続けた八年間。成果を出すことだけを考えて走ってきた毎日。そんな中で、栞と過ごす週末の時間が涼香にとってかけがえのないものになっていた。


 けれど、ここまで進めた成果をなしにすることは本当に正しいのだろうか。上司からのウケもいい。これがあれば、もっと上を目指せるかもしれない。

 葛藤しながら涼香は目を閉じた。


「その悲しみは、必要なものだから」


 栞の言葉が涼香の胸に静かに響いた。


 涼香はマウスに手を伸ばし、震える指で「削除」のアイコンをクリックした。画面から完璧なグラフが消失し、デスクトップには味気ない背景だけが残る。

 続けて、机の引き出しから契約書を取り出し、シュレッダーにかけた。紙が細かく裁断される音が、静かなオフィスに響く。



 翌週、涼香は栞に連絡を取った。


「少しだけ話せる?」


 自宅のドアを開けた栞は、こわばった表情をしていた。


「あのね、栞ちゃん」


 涼香はできるだけ穏やかに言った。


「データはもう十分集まったから、研究協力はこれでおしまい。本当にありがとう」


 栞の肩から、すこし力が抜けたのが分かった。けれど同時に、寂しそうな影も浮かんだ。


「それより」


 涼香はスマートフォンを取り出した。


「お腹空いてない? 駅の向こうに美味しいパスタ屋さんがあるんだけど」


 栞がきょとんとする。


「久しぶりに、友達とご飯食べたいなって思って」


 涼香は微笑んだ。


「割り勘でね。謝礼とかじゃなくて、ただの友達として」


 それは、栞が対等でいられるための、涼香なりの精一杯だった。


 栞の顔に、ゆっくりと笑顔が広がった。


「うん。行きたい」



 三月の風はまだ冷たかったけれど、日差しには確かな温もりがあった。


「ねえ、天峰さん」


「涼香でいいよ」


「じゃあ……涼香さん」


 栞は少し照れながら言った。


「パスタ、楽しみだな」


 駅前の雑踏に、二人の靴音が混ざり合う。

 いつもの癖で涼香は早足になりかける。

 けれど、隣を歩く栞の穏やかな足音に気づき、慌てて足を緩めた。

 栞の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き直す。

 春の風が、二人の髪を揺らして通り過ぎていった。

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