第181話 トリアージ・ブレイカー

 俺は天を仰ぎ、短く名前を呼んだ。


「——ティア!!」


 刹那。

 世界が凍りついたかのような静寂の中、桜の背後の空間が、唐突に裂けた。


 ガラスが割れるような生易しいものではない。まるで空間そのものが内側から食い破られたかのように、黄金の亀裂が走る。

 そこから現れたのは、黄金と白銀の鱗に覆われた、神々しくも恐ろしい、龍の腕だった。


『なっ……!?』


 女神像が息を呑む。

 龍の爪が、桜の頭上へと落ちようとしていた巨大な刃を、紙屑のように薙ぎ払った。

 鋼鉄の刃が飴細工のようにひしゃげ、彼方へと吹き飛んでいく。

 拘束具すらも、その余波だけで粉々に砕け散った。


「え……?」


 解放された桜が、呆然と背後の裂け目を見上げる。

 その裂け目の奥から幼女がニヤリと笑っているのを尻目に。

 俺は地面を爆ぜさせた。


 純粋な筋力による、超高速機動。

 俺が踏み込んだ一点の床材が、耐えきれずに粉塵となって爆散する。


 音すら置き去りにする速度。

 視界の端で、白雪さんの頭上にある刃が重力に従って落下を始めるのが見えた。

 死へのカウントダウン。

 だが、俺の体感時間において、それはあくびが出るほど緩慢な動きだった。


 一歩。

 俺の身体は砲弾のように空間を突き破り、白雪さんの目の前へと到達していた。


 落下してくる鋭利な刃。

 俺はそれを、素手で掴み取った。


 甲高い金属音が、悲鳴のように響き渡る。

 数トンもの重量と落下エネルギーが乗った一撃を、俺は左手一本で受け止めていた。


「し、柴田さん……?」


 白雪さんが、信じられないものを見る目で俺を見上げる。


「ごめん白雪さん。少し揺れます」


 握り込む。

 ただそれだけで、鋼鉄の刃に亀裂が走り、蜘蛛の巣のように広がっていく。

 そして次の瞬間、刃は無数の破片となって砕け散った。

 俺はそのまま、白雪さんを縛る光の鎖を引きちぎる。


 二つの処刑台が沈黙するまで、一秒にも満たない出来事だった。

 俺は白雪さんを抱きかかえて安全な場所へ下ろすと、呆然と立ち尽くす女神像へと向き直った。


『な……っ!?』


 女神像が抗議の声を上げる。


『ず、ずるいぞ! 外部の力を借りるとは! それに今、処刑鎌を『破壊』したな!? 暴力禁止のルールはどうなった!!』

「お前には暴力を振るってないだろ?」


 俺は平然と言い放った。

 これは屁理屈でもなんでもない。俺の中での明確なライン引きだ。


「ここに来るまでの道中、俺は誤って本棚をへし折ったが、警告は鳴らなかった。つまり、このダンジョンのルールにおける『暴力』の定義は、意思ある生命体への加害に限定されている」


 俺は粉々になった鎌の破片を靴先で転がした。


「こいつはただの『装置モノ』だ。魔物ですらない。だから暴力行為には該当しない。……違うか?」


 もっとも、仮にそれがルール違反で強制送還ペナルティを受けたとしても、関係なかった。

 視界が暗転するコンマ数秒の間でも、救い出す自信はあったからだ。

 俺にとって優先順位は、ルールよりも仲間の命が上にある。それだけの話だ。


『ぐぬぬ……』


 女神像が反論できずに歯噛みする。

 その悔しそうな声が響いた瞬間――。


 救出したはずの白雪さんと、向こう側にいた桜の姿が、ふわりと霧のように揺らぎ始めた。

 ティアがこじ開けた空間の亀裂も、溶けるように大気に馴染んでいく。


 次の瞬間、彼女たちは光の粒子となってさらさらと崩れ落ち、跡形もなく消滅した。


「……え?」


 へたり込んでいた諒さんが、目を丸くしてその光景を見つめている。


「なん……だと……? 消えた……?」

「やっぱり、幻影か」


 俺は小さく息を吐いた。

 驚きはない。どちらかと言えば、「やっぱりな」という納得の方が強かった。


「見抜いて……いたのか?」

「ええ、まあ。微かな違和感ですけどね」


 俺は、桜がいたはずの空白を見つめた。


「あの桜は、ただ怯えて助けを求めていた。……でも、本物の桜なら、あんな反応はしません」

「何?」

「あいつは、どんな絶望的な状況でも、ただ泣いて終わるようなヤツじゃない。たとえ拘束されていても、絶対に弱音なんて吐かない。むしろ、隙を見て敵の喉笛に噛み付く算段をしてるはずだ」


 俺の脳裏に、芯が強くて、愛おしい彼女の笑顔が浮かぶ。

 あの幻影は、外見こそ精巧だったが、中身までは模倣できていなかった。


 誰よりも『護られるだけ』を嫌がり、隣に並び立とうと努力を重ねる桜。その覚悟を侮辱してるわけだ、こいつは。


「お前は桜のデータを読み取ったのかもしれないが、その本質までは理解できていなかったな」


 桜や白雪さんが幻影だとしたら、桜を救ったティアの存在はどうなんだってことになるが、それは正直俺には判断できない。

 幻影がどうやってできたか仕組みが分からない以上、ティアがどうかなんて俺の範疇を超えている。


 あの空間の裂け目から漂ってきた魔力は、紛れもなくティアのものだった。

 幻影が作り出した演出なのか、それとも俺の呼びかけに応じて、次元を超えて本当に干渉してきたのか。


(ま、ティアならあり得るか)


 なにせ相手は神龍だ。神の域に達した存在。

 ダンジョンの隔絶された空間だろうが、俺の声が届けば、時空の壁くらい爪先でひっかいてこじ開けるだろう。それくらいは朝飯前に違いない。


 俺が一人で納得して頷いていると、女神像が苛立ちを露わにして叫んだ。


『小賢しい真似を! そのようなイレギュラー、認められん! そもそも、誰の助けも呼べない閉鎖状況ならどうするつもりだ!』


 女神像が食い下がってくる。

 確かに、極限状態の思考実験としては、彼女の言い分も正しいのかもしれない。


 リソースが尽き、逃げ場がなく、誰も助けに来ない状況。

 だが、俺はそんな前提ごと叩き潰すために、力をつけてきたんだ。


「だから、そもそもそんな状況にさせないって言ってるんだ」


 俺は番人の横を通り過ぎ、女神像の後ろにそびえ立つ分厚い扉へと歩み寄った。


「行き止まりで、逃げ場がなくて、リソースが足りないから『選ばなきゃいけない』状況になる。だったら——」


 俺は、扉にぺたりと掌を当てた。


「——広げればいいだけだ」


 このダンジョンのルールは『暴力の禁止』だ。

 だが、そのルールが適用されるのは、意思ある生命体への加害のみ。

 なら——壊して怒られる筋合いはない。


「ふっ!」


 俺は掌に力を込め――ほんの数センチの距離から、渾身の寸勁インパクトを叩き込んだ。


 鼓膜を劈くような轟音が、白い空間を物理的に叩き潰した。

 純粋な運動エネルギーが物体に干渉し、その構造限界を強引に突破した際の、大気の破裂音だ。


 本来、ダンジョンを構成する外壁や扉には、不壊属性とも言えるモノが付与されている。幾多の探索者が挑戦し、諦めてきたダンジョンの破壊。

 だが、俺の筋力は、そんなダンジョンの『ルール』すらも叩き潰す。


 掌を中心にして、白亜の扉に無数の亀裂が走る。

 壁が「壊れまい」と魔力を発して抵抗し、硬質な建材が悲鳴を上げるように軋むが、俺はさらに上から自身の魔力をねじ込んだ。


「開けよ。邪魔だ」


 限界を超えた負荷に耐えきれず、不壊の扉が弾け飛んだ。

 瓦礫が散弾のように吹き飛び、砂煙が舞う。


『は……?』


 女神像の目が点になる。

 砂煙が晴れた先には、直径数メートルに及ぶ巨大な風穴が穿たれていた。

 閉鎖空間だったはずの部屋に、扉の奥からの風が吹き込んでくる。


『なっ、ななな……馬鹿なッ!? 『不壊』属性の壁だぞ!? 概念的に破壊不可能なはずの隔壁が……物理的な腕力ごときで!?』


 女神像が、信じられないものを見る目で絶叫した。

 彼女の理解を超えているのだろう。

 絶対の防御力が、ただの暴力によって紙細工のように破られたことが。


 後ろで見ていた諒さんが、引きつった顔で呟いた。


「お前……それは……どんな力だ? 素手でダンジョンの構造そのものを粉砕したというのか……?」

「まぁ、そんな感じです。でも、これなら道が繋がりましたね」


 俺は風穴を指差して、ニカっと笑った。


「出口がないなら作ればいい。壁があるなら壊せばいい。

 風通しを良くしておけば、選択肢なんていくらでも作れるだろ?」


 女神像は、しばらく沈黙に浸り——。


『ルールすら……ことわりすら超越する力、か。……我々の想定する『医学』の範疇を超えている』


 女神像の表情が、どこか、憑き物が落ちたように穏やかになる。


『だが、それもまた、救済の一つの形と言うことか……。イレギュラーではあるが、汝らの覚悟と力、認めよう』


 女神像の姿が光の粒子となって消えていく。

 後に残されたのは、ボコボコに破壊された扉の残骸と、その奥に広がる空間への入口だけだった。

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